私という、非常に多面的な人間

水を得た魚、という言葉がある。

これは、魚にとって行動しやすい環境が水の中であり、その水の中という有利な環境を与えられれば、魚は自身の能力を最大限に発揮できるという意味である。

 

私にとっての水とは、自由である。

自由とは?大まかな情報と法則が理解でき、自分の意志と戦略と行動を駆使することにより環境を思いのままに操れることだ。操れるといっても、権謀術数的な意味よりも後半な意味である。

 

そのような自由さえ、自由になれる環境され整えば、私は何事にも意欲的に、主体的に、活き活きと思考し、行動することができる。

 

この自分の特質は、かなり素晴らしいものだと自分で思っている。なぜなら、今、私が自由の身でいるという感覚があり、そして人生を楽しく過ごしている自覚があるからだ。

 

ただ、この特質には一つ、難点がある。それは、情報と法則を知悉するまで非常に憶病になり、非意欲的であるということだ。例を挙げよう。例えば、FPS系のゲーム、あるいは3D世界でキャラを動かすタイプであれば、私はまず必ず地形がどうなっているのかを把握したがる。ただの平和なゲームであれば、それほど意識することはないかもしれないが、戦闘ゲームであればその傾向は顕著である。敵を倒すことよりも、私はなぜかこの世界がどういう構造になっているのかを把握したがる。それまでは、遠くから戦うスタイルが多い。

 

こういうふるまい方は現実世界でも同じである。とにかく、全容が見えない限りは極端に憶病になる。目的すらも自分であまり見いだせない。それまでは本当に役に立たない。ダンスをしていたときだってそうだ。全体像が分からないと、体が全く動かない。体験会の時は一番下手だったと思うし、先輩からも同じようなことを言われた。

 

まあ、これが私の多面的な面の一面である。

 

もう1つ、多面性がある。それは、戦闘狂でありながら、穏やかさを求めるところもあるところだ。正直、ここは自分でもあまり分かっていない。しかし、この2つの性格は紛れもなく私の中に存在するものだ。

 

戦闘狂というのは、補足すると、最近までは青年期のホルモンバランス異常などによる若さ特有の現象であったと思っていた。しかし、それは勘違いであった。なぜそれに気づいたかというと、昔自分がハマっていたゲームのRTA動画を見返したときに、そのゲームが非常にアクションゲームとして優れており、そのゲームをすることでアクションが非常に面白いことを学んだからだと思ったからだ。つまり、若さ特有というより、非常にアクションゲームとして面白いゲームを繰り返しプレイすることで、戦闘の面白さを若いうちから性根に叩き込まれたのだ。

 

昔のプレイ動画を見ていると、私が今まで「戦闘」に熱中してきたことを思い出す。それは休み時間のサッカーであったり、受験勉強であったり、ダンスであったり。就活だってそうかもしれない。そして、今の仕事でさえ、そのような戦闘狂の一面が表れつつああると考える。

 

BLEACH剣八卯の花隊長の戦闘を見て、私は非常に彼らに共感した。私は黒土まゆりタイプかと思ったが、彼らに共通する自由という性質を持ってそう思ったのだろう。どちらかというと、剣八のように戦闘それ自体を楽しむ姿にとても共感したし、私も今はそういう状態になりつつあると確信した。

 

一方で、穏やかな側面もある。チルな気分になりたい時だってある。何も考えず、だらだらと過ごしたい時もある。むしろこっちが本省なんじゃないかって思うときもある。でも、それだけじゃ自分は満足できないことも知っている。

 

三島由紀夫が、人間には生の衝動と死の衝動があると言っていた。まさしく、私はその2つの衝動を持っていると感じる。

 

自分が分からない。ここまで開設しておいてなんだが、自分という人間がまだ分からない。でも、それでいいと思う。戦闘狂であってもチルする人であってもいい。

 

自由を求める人でもいい。とにかく、行動こそが賛美されるという葉隠れには共感を寄せざるを得ない。おやすみ。