初めての旅行:一期一会

鹿児島のシンボル・桜島をまるごと楽しもう|特集|鹿児島県観光サイト/かごしまの旅

楽しかった旅行

 先日まで高校の同期と旅行をしていた。私自身、友達ときちんと旅行をしたことがなく、大学生として抱いていた「友で達と旅行」という夢を実現きてよかった。実際に、見知らぬ土地を訪れたり、ご当地のグルメを堪能したり、ドライブ中や宿泊中にするゲームや内輪話で面白がったり、自分にとって良い旅行となったと思う。

 

 今回の記事の本筋とはずれるのだが、やはり旅行はいいものだなと感じた。世界の広がりを感じられる。私の知らない世界があるということを感じられる。桜島に行くまでのフェリー、桜島の土地の様子、土の様子、風の音とそれになびいて動く樹々の音、私が普通に日常を過ごしているだけでは到底気づけない、感じられないことを多く旅行先で学べたと思う。次はどこに行こうか、誰と行こうか。

 

同期たちとずれを感じた旅行

 楽しかったという旅行とはいうものの、それは同期たち全員と一体感を感じて楽しめたという意味ではない。もちろん、同期のなかにとても気の合う友達もいたが、多くは彼らと私の間にずれが生じていたような感覚を覚えた。

 

①痴話事に対する価値観

 気の合う友達以外とは、特にこれを感じた。「女をたくさん経験していたり、遊んでいればいるほど素晴らしい」というような価値観が彼らのほうには存在していた。恋愛関係の話になると、彼らと関係のある女との感情的な体験というよりは、肉体的な体験ばかりに関心があるような様子だった。それもそのはず、彼らの容姿はお世辞にも優れているとは言えず、そのせいもあって学生時代はうまく恋愛ができなかったに違いない。だからこそ、恋愛に対して、恋愛ができないというコンプレックスを抱いていたのだろう。

 

 一方、私のほうは高校生のときに豊かな?恋愛経験をしている。学校1の呼び声の高い美女とお付き合い的な関係になり、学校では私と彼女の関係が非常に話題になっていたようだった。そして、今は懇意にしている女性と精神的な繋がりを感じながら恋愛をしている。つまり私にとって恋愛で関心があるのは、相手の容姿などではなく、相手がどういう人かということなのだ。

 

②回復が困難な自己肯定感

 同期全体として、自己肯定感が低いといえる。中でもSは特に低い。小中学生のときに、主に容姿をきっかけに他人からいじめられることが多かったことがあってか、性格が少し歪んでしまっているように感じた。そして、その低い自己肯定感は他人からの一時的なアドバイスによって容易に改善できるものではないと感じた。特にそいつに関しては。

 

 自己肯定感が低いと、自分が幸せに生きられないだけでなく、他人にも悪影響を与えてしまうことが多い。過剰なまでの親切心、自分に向ける批判的な精神を特定の人間に対して同じように向けてしまうこと、視野狭窄。今回の旅行で、私は自己肯定感を高めることは他人のためになるのだなと改めて認識した。きちんと瞑想を継続しようと思う。

 

③経済的な醜いコンプレックス

 とある同期が「あらやしきは飽きっぽいから仕事が続くかどうか分らんね」と私に言ってきた。その同期は私に対して滅多にこのようなネガティブな発言をしないのだが、(するとしても、それに付随して何かしらの助言を授けてくれたりしそうなのだが)、今回はただこのネガティブな発言だけ残していった。

 

 私が分析するに、これは「就活に失敗した自分が正しい道を歩んでいると思い込みたくて、あらやしきのように”背伸びせずに今の仕事を選んだことは正しい”」という、ある意味、認知的不協和の現象が起きている。

 

 個人的に、この発言に対して私は悲しさと怒りを同時に覚え、絶対に仕事を“飽きた”とか”うまくいかなかった”という一時的な状況判断から仕事を変えたりしないと強く決意した。

 

 就活が上手くいかなかった理由は、紛れもなく彼らの行動そのものにあるのに、結果的に就職することになった今の企業で働くことが正しいと思い込み、結果的に就活が上手くいったと思おうとしている。

 

 しかし、一つだけ言っておくと私と彼らで就活の結果が変わったのは、少なくともその個人の努力や意思決定というようなPersonalな要因以外にも原因はあると思っている。すなわち、生まれつきの容姿、思考力、育った環境などのような、個人では変えることが難しい要因によると考えている。

 

 だから、彼らの攻撃的な主張に対して、「私は私という強い意志があったからこそ成功できたのだ!」とは言わない。あらゆるエージェントが今のような状況があるのだ。

 

 とはいえ、私個人の意見、主観的な感想としては、「舐めるなよ」である。

 

④将来的な見通し

 彼らと私とでは、将来的な見通しが殆ど異なる。それは根本の欲求に関係している。

私は、とにかく自分の満足と、社会的・環境的・世界的な影響を与えたいことが根本の欲求にある。一方、彼らは自分の満足、あるいは世間一般で言われていることをその通りにやってみたいという、普通の人間が抱く欲求が根本にある。

 

 何が言いたいかというと、私は彼らの将来がどうなるかを何となく予想できる。ただの凡人となって人生を終えていくのだ。この世にほとんど何の影響も残さず。それが悪いと言っているわけではない。しかし、それが正しいとも思わない。

 

まとめ

 非常に旅行は楽しかった。一人ではできないことがあると感じた、友達と一緒だから旅行はもっと楽しくなるということを知った。また、期間を開けてなら一緒に行きたいとも思った。でも、日常的に一緒に過ごしたいとは思わなくなった。

 

 私が友達と付き合う理由は、やはり好奇心からくるのかもしれない。共感できる相手、自分の満足感の方向性が似ている相手でなければ(そしてそれはあまりいないと思うのだが)、継続的に付き合おうとは思わない。

 

 また、期間を開けることでお互いがお互いの成長を感じられないということもあるのかもしれないと思った。友人は「あらやしきは趣味を見つけようとするタイプ」とか言っていたが、今の私は殆どそうではない。昔の自分と今の自分、そして周囲から昔の自分を要求されることの苦痛は、とくに気の合う友人が感じていたことだろう。

 

 今回の同期旅行で新たに学んだことは、あらやしきは恒久的な友人を作るのが難しいのかもしれないということだ。もちろん、気の合う友人は恒久的な友人だと信じているし、何なら同期もそうなってほしいと願っている。ただ、TRUMPシリーズのソフィーのように、親しい友人ができては消え、できては消え、の繰り返しをするのかもしれない。

 

 一期一会とは、出会いは一度きりであるという意味だが、そうなのかもしれない。私たちは同じ個体、同じ名前をした個体に時空を経てあったとしても、出会う相手はその時々で大きく変わっている。一期一会とは、そういうことなのかもしれない。