司令塔とプレーヤーの共存こそ俺の本質

一番、自分らしくいられる瞬間はいつか。
自分が力を、ポテンシャルを120%発揮できていると思える瞬間はいつか。
自分で鎌を持って草むらを切り開いているときか?仲間と協力してボールをゴール手前までもっていくときか?それとも、シュートを決めるときか?ゴールキーパーとして、皆をサポートしているときか?それとも全く新しい必殺技を考えているときか?

俺は、偉そうに物事を上から俯瞰して、構造を把握して、世界を手中に収めてようとしているときが、きっと自分が一番自分らしくいられる。
抽象の世界に属して、存在や正解が揺らぐことのない、確実に安全な場所で、この世界を見て、語り、そして、それをみんなに伝えることがすごく好きだ。

皆が見えていない世界を、誰よりも高い視座から眺めて、未来を見通して、
必ず成功に至る道を考えているのが好きだ。そして、その時こそ、心から安心して至られる。

私は、こと人間関係においては、つながっておきたいと思う人から無視されたり、ぞんざいな扱いを受けたりすることが本当にストレスで、しかも、不安の一因になる。
そんな一面を最近、お酒に酔って吐露してしまいがちなことを後悔している。お酒には気を付けたい。そう思う自分の心の弱さを認識した一方で、自分にとって本当に幸せなこととは何かと考えるきっかけも得られた。
孤独であることは不幸の要素の一部だが、一方で幸福とは不幸でないことではないと思う。不幸とは苦痛を感じることである。苦痛を感じないことが幸福ではない。幸福を感じられる瞬間は、快感物質を感じているまさにその時である。

冒頭でも言った通り、私は仲間と協力してボールをゴール前までもっていくことが自分らしいとは思えない。そんな時、自分はきっと無理をしている。誰かにパスをする瞬間、頭のどこかでは一歩その場面を引いてみている自分がいる。結果的に、司令塔的な役割になって、いずれ自分がパスの指示を出す司令塔になるだろう。
一方で、完全な監督は自分らしいかというと、そうではない気がする。年齢の問題かもしれないが、結局、私はフィールドで戦いながら、司令塔でもありたいのだ。
きっとその方が、成功に至るまで早いと思っていることと、シンプルにその探り探りのプロセスが楽しいと感じる。だが、全体像が見えなくなったとたんに、私はぐらつき、何もできなくなるといっても過言ではない。常に一歩引いた視点で、自分とその周りを捉えていたい。だからこそ、そのとき、自分というプレーヤーが、肉体が、精神が、水を得た魚のように自由に動き回れるのだ。

だから、私は本質的には、司令塔としての自分と、プレーヤーとしての自分の両方がいるのだ。どちらが私の本質であるというより、両方が同時に存在しているとき、真の私らしさが感じられる。

どちらか一方に偏った時、平衡感覚を失い、転倒する。