ワクワクの先にある感情

 

まだ知らぬ領域へ足を踏み入れること、その領域には何があるのか胸を膨らませること、未知であるが故の理想郷を思い描くこと、それが私にとってのワクワクという感情だ。

 

この前、バスケの社会人サークルに初めて、しかも単独で参加をした。わたしはバスケ歴は1年ほどだが、そのサークルは初心者も多くいるということで安心をしていた。

 

そのサークルの人たちは、良い人ばかりだった。最初、見知らぬ私に対しても、温かく迎え入れてくれた。ぱっと見は強面の人が多かったけど、しゃべってみるとすごくぼけてくれたり、自分のことを損得勘定抜きで知ろうとしてくれていたことが伝わった。

 

私は久しぶりにバスケをしたが、センタープレイで主に得点をしたりして、周りから誉められた。でも、スタミナが中盤から尽きてしまい、出るはずだった試合でも他の人が代わりに出てくれたり、試合中もチームのために満足に動けなかった。

 

ちなみに、「これ以上やったら死ぬ」と思った瞬間もあった。もう体力は限界なのに、試合が連続で続いたとき。あのとき、誰にも辞めます、なんていえなかった。もしかしたら、みんなは僕が限界だったことに気が付いてたのかもしれないけど、でも、あえて何も言わなかったのかもしれない。

 

私は、なるべく自分の体力を最大限に有効活用とした。なんとかして試合はのりきったものの、帰路ではお腹の中のポカリを吐きそうになっていた。

 

しかし、高校の頃に私は一度でも、吐きそうになるほど走ったことがあっただろうか?記憶ではなかった。でも、この前のサークルではそうなった。それが単なる加齢による衰えの現れかもしれないけど、私はあの時自分に「限界を超えよう」と心の中で言っていたし、最後の試合でも気合が入っていたように思う。

 

私はおそらく、いや間違いなく、あの瞬間に限界を超えた。

 

限界と言えば、私はその数日前に、「限界とはなんだろうか?限界を超えるとはいったいどういうことだろうか?」と考えていた。効率の良い筋トレとは、限界×3セットであるとよく聞くが、果たして限界とは?一人で筋トレをしていても、その限界について納得したことはなかった。

 

しかし、今振り返ると、あの日のバスケコートで私は限界を超えたのだ。

なぜだろう。ああ。「もう無理」と思ったその先の領域に、足を踏み入れようとしたからだ。「もう無理」と思ってからが勝負なのだ。

 

もちろん、周りに迷惑をかけたくない、これ以上は休めないという背水の陣効果もあったのかもしれない。でも、私はあの日、ただひたすらに自分とだけ向き合っていた。

誰かと競い合う意識はほとんどなく、ただ自分自身の限界に挑戦していた。もちろん、それは相手チームより多くの点を取るという目標があったからこそできたのだろう。

 

帰路で、私は今までに感じたことのない感覚を体から感じていた。

それは、ワクワクに似ているが、異なるものだった。

もっと強くなりたい?という思いにも似ているが、誰か特定の人に勝ちたいというわけでもなかった。ただひたすら、自分の限界に挑戦したい。もっと楽しみたい!という感情が近かった。もっと楽しむために、もっとトレーニングしよう。もっと体力をつけよう。毎日走りこもう、そんな気持ちだった。それは、今その瞬間の快感に集中しているわけではないし、一見、目的をもった思考のようにも思える。でも、私はこんな風に感じていた時、間違いなく、自分自身を掴んでいた。

 

明日、というか今日も、殆ど知らない人たちとバスケをする。彼らの力量は知らない。もしかしたら、大恥をかくかもしれない。でも、俺はたぶん、そんなことより、自分自身の限界に挑戦して、乗り越えたいのかもしれない。

 

後無意識に、今の彼女がいるから、いつでも帰る場所があるから、安心して挑戦できると思っているのかもしれない。そういう意味では、今のわたしにとって、今の彼女は必要不可欠だし、愛情を貰っていると思っている。

 

熱中って、こういうことを言うのかな??