好奇心と飽き性と必要とされている自分

好奇心が強い私

 はたから見れば,私は好奇心が強い人間に見えることだろう。人より多くのことについて経験してるから,割とどんな人とも話を合わせやすい。人が知らない話をしていても,それに対して耳を傾けることができる。

 スポーツはテニスからバスケからダンス。音楽はドラムをちょっとだけやってみたり。それから,バイトも沢山いろんなことをしてきた。ただのコンビニバイトもちょっとだけやったし,紳士服の販売のバイトもしたし,家電の開発の補助なんかもやってみたり。

 何かで突出するタイプではないということは自分でもわかっている。例えば,学業の成績なんかも,特定の科目一つだけずば抜けるタイプではなく,満遍なく点数を上げていくタイプだ。ご飯を食べるときも,三角食べを無意識にやっている。

 好奇心が強いというのは,今やっていることに対して意識を向け続けることの反対である。例えば,やっていることに対して,①意義を感じられなくなったり②単純に飽きてしまったりしたときに,また別のことを始めようとする。

 だが,果たして本当にそれだけだろうか?損得勘定や新奇性という観点だけで片付けられない要素があると,私は思う。そして,それを認識することは私にとって強い痛みを感じさせるものである。でも,今のうちに向き合っておきたい。

 

飽き性である理由①必要とされたい感情が強い

 恋愛でも仕事でも勉強でも,私の最も根本的な感情は「必要とされたい」という社会的な感情のように思う。つまり,外向性であるということ。

 この感情自体は,悪いものではないとは思う。この根本にあるのは,人を人として認識する道徳的な感性が備わっている。

 

 ただしかし,間違っている点もある。それは,主体と客体をきっぱりと話しているということだ。これによって,他者の喜びを自分の喜びとして感じにくいということだ。少し説明は難しいが,他人が喜ぶことをすることで他者の喜びに共感するわけではなく,あくまでも自分が「すごい」という評価を受けたいというのが私の本性だと思う。

 

 そこには,異常なまでの「順位付け」が脳内で行われていた。価値基準が,すごい=スキルの高い,なので,スキルが伴っていなければ,あるいは一番を取れなさそうなら私はそこで何かをする意味がないと考える傾向にある。

 

 より多くの人に賞賛されたい。政治家や偉大な発明家のように,1対多という形ですごいと言われたい。そこには,くっきりと境界線が引かれている。

 

 しかし,この「他人と自分を明確に線引きしている」ことが飽き性に直結するわけではない。

飽き性である理由②他人と長期的なコミュニケーションを取るのが下手

 これに尽きる。この下手な理由にも2つある。1つ目は,価値基準がスキルだから。2つ目は,自分自身を見つめていないから。1つ目については,スキルすなわち社会的な評価という点でしか人を見なかったから,コミュニケーションで最も必要な共感ということができなかった。だから「キラキラ感」で短期的なコミュニケートはできても,持続的なそれは難しい。

 2つ目,自分自身を見つめていないから。瞑想をすると,自分自身の相対的な位置把握をすることができ,周囲の影響や流れが自分を構成しているということに気付く。また,何が流れることで満足するか,逆に嫌になるかを知ることができ,また,他者も同じような感性で生きるということを理解できるから,お互いに心地の良いコミュニケ―ションを取れる。

 

飽き性な私でも続けられたこと

 ①地元での紳士服販売のアルバイト

 ②勉強

この2つくらいだろうか。①については,私はスーツがとても似合っているのでその場にいる女性社員や,来店されるお客様に良い影響を持続的に与えることができていたからだろう。

 ②についても,これは受験勉強に限った話だが,将来的に人から役に立つと思われたり,あるいは賞賛されるという確信があったからこそ続けられたのだろう。

 

ではどうすればいいのか

 好奇心とは,私の場合は浮ついた心である。なるべくなくしたい。それが本音だ。あるコミュニティで,持続的な関係を構築したい。今いるサークルでも,できることなら制作物の作成をやめたくない。そう,!それが本音だ。

 

 でも,それでも面倒くさいと思ってしまう。他にやるべきことがあるから。これは多分,瞑想したら変わる気がする。最近瞑想してないな。ちゃんとやろう