傷つくことを恐れて挑戦しないことが最大の失敗

野球を観戦する時のマナー5選|【SPAIA】スパイア

 

 

記事のタイトルは、今日私が兵庫県のとある海辺で散歩をしていた時にふと思いついた考えである。私はこの言葉が頭に浮かぶまで、ネガティブな感情とそれに付随するネガティブな考えが私を支配していた。

 

ネガティブな考えとは、当時書いていたメモ書きを参照すると、「人から見られるのが怖い」とか「自分が惨めに思える」とか、「今までの選択は間違いだった」とか、「楽しそうにしている人が嫌い」とかだ。

自分史上、これほど他人と自分に対して負の考えを抱いたことはないように思えるけど、今回初めて自分の感情を素直に書いたことによって、今まで意識上に上ってこなかった感情を可視化することができたのかもしれない。

 

実際、そのときに抱いていた感覚や感情は、そうでないときにはまるっきり忘れられるようだ。私が今こうしてブログを書くために、書いたメモを読み返して初めて、今日はネガティブなことを考えていたなと思い出せた。

 

私が忘れてしまっていた、しかし、私の変化として重要なメモは、「他人が生きている生物であるという感覚がすごい、サイコパスのような感覚が薄れた。皮膚があり、呼吸をしていて、私の働きかけによって、何らかの応答をする。真の意味で、人の考えを知ることなど到底できないと、この前のカテキョで悟った」というものだ。

確かに、私は以前と比べて、人を、血の通った1つの歴史のある存在であることを強く認識するようになった。そして、私の何らかのアクションによって、彼らの返す反応もまた異なるということ。(以前は、彼らの反応にそれほど注意していなかったかもしれない。これは、今の彼女の「あらやしきのことをいつも考えているよ」という言葉によって、私は、その瞬間の相手の状況を考えるというよりは、私の中に築き上げられた仮想的な人間と接しているかもしれないという気付きからの想念である)

 

もう1つの重要なメモは「私は昔の怖いもの知らずな私を習って行動している。しかし、それは、それでも世界をつかめている感覚がない」というものだ。

世界をつかめている感覚は今まで、私も何度か意識的に経験したことがある。それは、瞑想をしているときだ。あるいは、瞑想状態に入ったときにやるスポーツや読書である。ただ、今日の私は朝から全く、世界から浮遊していた感覚ばかりあった。

 

ただ、海は少しだけ私らしくしてくれたとある。自然は偉大なのだ。

 

傷つくことを恐れて挑戦しないことが最大の失敗

 この想念が浮かび上がってから、私の意識はポジティブに変化した。

グラデーションのように変わったというより、むしろデジタル的な変化、0から1になった感じだった。

 それはきっと、スポーツに関係している。海辺には、野球やサッカーそれからテニスをしている中高生が多く見られた。私はそれを見て、なんだか皮膚の下がアツくなるような感覚を抱いた。それが何なのかは分からないが。

 今まで、野球観戦に熱くなる意味が分からなかったが、私は今日その意味が分かった気がする。誰かを応援するということは、一度絶望した人間でないとその意味が分からない。

 

 誰かが頑張っているのを応援するというのは、惨めだが希望を持つ自分をまた応援するという、他人を通して自分を鼓舞するシステムでもあるのだ。あるいは、野球選手と自己を一体化することで、何かに挑戦するという幸福感を得るためにあるのだと。

 

 私はそういう意味で、スポーツをまたやりたいと思っている。

ダンスはあんまり好きじゃないかもしれない。私は、ダンスで自己表現というか世界を掴んだと思ったことは、実は一度もない。世界を掴めていると思ったとき、それは、

他人と関わっているとき(それが具体的にどういうときかは今でも分からない)、それか、瞑想をしているとき、何かに集中しているとき、大自然の中にいるときだ。

 

瞑想をしよう。私の人生の起点は瞑想にある。