仮説思考の自縛と,瞑想の効用の実感

どんな時でもPDCA思考を忘れるな

 とちくるっていた。今日投稿した前の記事,意味の分からないものに対して進んで足を踏み入れるということ。その行動の先に,何が得られるか分からないのに,あるいは何が見えるか予想もしないのに,行動しても多分何にも得られない。

 

 ENTPは,わけのわからないもの,予想できないものに対して,予想ができないまま挑もうとする傾向がある。結果の分かっているものに対して,さほど関心をもたない。賭ケグルイの主人公である蛇喰さんも同じタイプの人間だ。

 

 それでも,だ。人が成長するためには,きちんと仮説を立てる必要があり,行動の結果というフィードバックと仮説を比較することで,自分の意思決定が正しかったかどうかが分かる。仮説と行動,そして結果という3項の随伴性の学習を繰り返すことで,人は速いスピードで正しい意思決定ができるようになるのだ。

 

 だから,何も考えないまま行動するなんてもってのほかだ!

もちろん,感覚器官に入力されるバラバラの刺激に満足するだけでは,私の欲は満たされないということは今でもよくわかっている。だからこそ,ギャンブル思考,仮説思考を徹底的に守る必要があるのだ。

 

 自分ルールを設けていたな。それを破れば,500円の貯金をするという罰も設けている。仮説思考はルールに組み込んでいいかもしれない。いや,組み込もう。

 

 ルールの改定は,3人の友人に当否を聞いてからにしよう。私に決定権はない。とりあえずな。

 

瞑想の効用の実感

 明日,私は本当にやりたくもないことをしに行く。やることが10あるとすれば,やりたいことは1でやりたくないことが9だ。

 

 本当にやりたくない。具体的には,他者との感情共有である。いや,具体的に言えば,開放的な感情体験の共有?いや,違う。私がよいとおもっていないものを,あたかも良いと思っているという風に振る舞うことが嫌なのだ。

 

 それを敢えてできるタイプの人と自分は何が違うのか?1つは,そういう環境で育った人だ。例えば,やりたくないことでも他人が喜んでくれるなら進んでやるという人に囲まれて育ったり,あるいは自分の欲望を抑えなければそれ以上の苦痛を感じるという人だ。

 

 私はそのいずれでもない。やりたくないことはやってこなかったし,理不尽だと思うことは決してやらなかった。いわゆる頑固者である。そういえば,元カノにも言われたな。それも頻繁に。プライドが高いともいえる。

 

 それでも,本当にやりたくないのだ。そういうことをしていて楽しいと思えないのに,どうしてやる必要があるのか!(決まっている,その苦悩の先に私がやりたいことがあるから,すなわち,集団でダンスをして,ダンスを賞賛されるということ)

 

 正直に言えば,それだけしたい。サークルのメンバーが全員,俺の気持ちを分かってくれるタイプの人間であれば,進んで交友関係を築くだろう。でも,きっとそうじゃない。俺は明日,地獄を見るかもしれない。生きづらさだ。それでも,やらねばならぬ。

 

 俺は成長したい。そういう一般的な感情共有ができている振りができる人間になりたい。もっといえば,そういう奴らから一目置かれたい。・・・いや,少なくとも顕在意識上では,あんまりそうは思わない。私と彼らとの間には,明確な境界線があって,同じ人間だとも思えない。

 

 いやだ。

 

 とまあ,こんなにいやだいやだと呟いてきたわけだが,今までこんなことは一度もなかった。どういうことか。自分が嫌なことを認識しているのにもかかわらず,それでも自分の好きなことのために自分の心をコントロールして,嫌なことをやろうとしていること。

 今までは,嫌なことだと潜在的に感じていても,顕在意識の楽しいことでそれを打ち消していた。それは一種の抑圧であって,どこかで爆発していたように思える。母親だってそうだ。というか,内と外を作っている人はみんなだいたいそう。

 

 でも今は,俺は内と外を作っていても,それを明確に分けようとしない。それぞれの場面で,それぞれの場面が強制的に私の人格を塗り替えるようなことに抗えるし,精神は常に一貫している。アイドルがキモオタと握手をする時,握手をすることが善いことだと思い込むのではなく,「こいつキモすぎる」と思いながら笑顔で握手ができる。

 

 「表現」である。これは「表現」だ。精神とインターフェースが独立していてもよいと理解している大人の振舞だ。

 

 これは,もしかしたら瞑想のおかげかなと思っている。瞑想を毎朝することで,自分のランダムな感情や思考を遠くから眺めることができるようになっているのかもしれない。

 

 4日前から瞑想を含めて自分ルールを設けている。それは時に,「理不尽だ」と感じることもある。しかし,ルールを守っていると,それなりに意味があることなのだと後から分かる。

 

 さあ,明日も「理不尽だ」「イヤだ」と思いながら,表現をするのかもしれない。それが後になって「よかった」と思えるかどうかは,世界次第だな。