この世はソシャゲ

 浪人期の私が残した言葉だ。当時の私の価値観を大きく反映した言葉だ。

この世は,自身の身と命を全て捧げられる最終的な目標や価値はなく,ただ与えられた生をいかに満足して生きるか,それに尽きるという考えが反映されている。

 

 その価値観が今,再び私の中へ戻ってきている。しかしそれは,ネガティブなニヒリズムが伴っているわけではない。また,必要以上にポジティブになっているわけでもない。ただ,今の自分の価値観として,「退屈な毎日をもっと面白くしたい」という欲求が働いているというだけである。

 

「エージェント」という考え方が私を社交的にする

 前回のバイトの出勤から,2回連続で「暗い」「笑顔!」と言われている。

この地に来てから,こういうことを職場でよく言われる。これは,この土地に住む人が明るさを重視しているというのもあるだろう(実際,元居た土地は今いる土地より活気が少ないと思う)

 

 社員さん,とくに店長さんは「相手に信頼感を抱いてもらうために,明るくするのだ」と言っている。私はこのおかげで初めて「信頼感」という言葉の意味するところを考えるようになった。

 

 「信頼感」,それは社会的に成功する上でもっとも大切なことの1つだ。

販売のお仕事では,スタッフに対して「この人の言うことは信じていい」と思うことで,その人のすすめた商品を買うのだ。もちろん,ネットの評判だけを見て商品を買う人も今の時代は多いかもしれないが,販売スタッフにかかわらず,他者に対して何かを働きかけるときに,「信頼感」を意識することは重要である。

 

 それでは,信頼感とはどうすれば生み出せるのか?それは,表現について考えると良い。

 私は今までの記事で,「表現」について考えてきた。これに関連して,模範や,キラキラ感といったワードが出てきていた。「表現」とは,被表現者に何らかの知覚表象をもたらすこと,あるいはそうするエージェントのことである。

 

 表現の一つに,表情がある。笑顔であれば,それを見た相手は「相手は楽しんでいるんだな」と理解できる。顔の表情以外にも,ボディランゲージなどによって,相手の思いの強さなども表現できる。

 この表現とは,人間に限らず,無機物も可能である。そして,それについて大きく説明したのが,ラトゥールである。人間を含むすべての存在物は,エージェンシーを持っている。エージェンシーとはまさしく,表現である。

 

 大学の講義を通して,人以外にもそうした行為遂行能力があることを学んだ。そしてそれが今,私の成長に活かされようとしている。

 

 先ほど,「暗い」「笑顔じゃない」とFBをうけたとあったが,正直,私は心の底から明るくなったり,見知らぬ人にすぐに笑顔になるなんてできない。私は,自分でも思う通り,冷淡でクズだと思う。ただ,能力がないわけではない。無能はカスだ。

 

 そういう冷淡な私にとって,エージェントという考えはとても優しかった。何故なら,私自身も物質的なエージェント,もっというと,無機物的なエージェントであると考えることで,素直に「笑顔」になったり,「明るく」なれたりできると今日感じたからだ。私はどちらかというと,ロボットや自然,人でないもの,人を超えたものニ大して共感を抱く。そうした無機物的なものは,人間のように意思をもたず,無力なものだと考えていたが,ラトゥールはそうではないと説明した。

 だから,モノに近い私が(というか,そういう考え方をする私が),いや,私も,心がなくても,いや,心に対応していなくても,笑顔や大きな声,身振り手振りという表現をすることができるし,それでうまくいくとい考えるようになった。

 

 昔の自分であれば,心と行動が一体でないと気が済まなかっただろうが,今は違う。

 

 副産物?として,そういう風に表面的なところから社交的になったり,社会的に影響を及ぼせる個体に成長していると思うと,感じると,嬉しくなったり,他の物事にも果敢に挑戦できるようになっていると感じる。

 

 だからこそ,先ほど述べたような価値観「人生はソシャゲ」にたどり着いたのかもしれない。

 

 とはいえ,私としても,私自身の心は絶対に失いたくない。失っていた時,何も感じられず,ゆえに何も残らないのだから。

 

 と,いうことを初恋の人と久しぶりに出会い,彼女との記憶をめぐらしてもあまり思い出せないことからそう思った。

 

終わり。