価値観の醸成~終わりということ~

◇ 『GANTZ -ガンツ- 』36巻 感想 - 五里霧中

 

 

終わりがあるからこそ生まれるエンターテインメント

 人生には必ず終わりが来る。いずれ意識がなくなり、自由に体を動かすこともできなくなる時が来る。死の先に何があるかは今のところ分からないが、科学が示すことによれば、死の先には何もない。

 

 人は若いころに、人生に終わりがくることを恐怖する。死んだらどうなるのか、あるいは、死ぬ瞬間はどんな苦痛を感じるのか、想像すればするほど恐ろしい。

 しかし、ある一定の時期を過ごせば、そのようなことは気にしなくなる。むしろ、死を受け入れるようになり、死すら笑いの種にする人も多い。

 

 このように、死、すなわち終わりがくることは笑いの種になりやすい。「死ぬほど○○だった」という例文の通り、死というものは身近なものでありながら非常に刺激的で触れてはいけないものである。笑いの基本である、緊張と緩和における緊張に当たる。

 

 終わりがくることを認識したり、受け入れたりすることによって、不老不死の人の意識には生まれないある種のエンターテインメントが生まれるということである。

 

 死があることの効用は他にもある。例えば、メメントモリである。人生は永遠に続くわけではなく、いずれ終わってしまう。だからこそ、今を一生懸命に過ごし、今というその瞬間を全力で体感すべきであるという思想である。これによって、人は通常よりも大きなエネルギーに突き動かされるわけである。もし仮にあなたが不老不死ならば、すべてのタスクを後回しにしても気にしないのではないだろうか?

 

刺激的な意思決定の連続

 死によって生まれるエンターテインメントの1つ、それは取り返しのつかないゲームのような要素とでもいえるだろうか。

 子どものときはあまり気付けないが、世の中は非常に多様な要素で構成されている。自分の思った通りの人生を歩むためには、様々な情報と法則を知悉する必要があるだけでなく、それらをもとに最適な意思決定をせねばならない。戦うべきか逃げるべきか、戦うならばどのように戦うか、いつ兵を動かすか、どこに出陣すべきか、様々な戦略を練り、そして行動する必要がある。

 子どものころは、「成功」のための手段がかなりはっきりしている。例えば、テストで良い点を取ること、偏差値の高い大学に入ること、部活で輝かしい成績を残すこと、コミュニティでリーダーになること。特に最初の2つは、いわゆる「成功」と直結する要素だと考えられやすい。だからこそ、アガリを確信した中高生はSNS上で意気揚々とその成果を報告するのである。

 もちろん、それらが「成功」ないしは最適な意思決定を行うための材料になる場合が多いだろう。しかし、世の中はそれらの武器だけで切り開けるほど甘くはない。

 

 学歴といったステータス以外にも、苦難を耐え抜く力、継続する力、性格のような内的な性質が重要になることが多い。また、頭の回転がはやかったとしても、他人に寄り添う力がなければ集団内で生き抜くことはできないだろうし、パートナーとも上手く折り合って生きることはできない。受験においては有効に働きがちな完璧主義という性質も、制限時間内に成果を出さねばならない仕事の場においては不利に働くこともある。

 

 まだ20代前半の若造ではあるが、すでに「成功」を目指していた同胞が、取り返しのつかない意思決定をしてしまっているのを見かける。ああ、この人はもう年収1000万はかせげないだろうな、とか、自分に100%の自信をもって生きることはできなさそうだな、とかが分かる。逆に、「取り返しのつかない人生」を実感できたのは、私にとっても最近のことである。私は、卒業旅行で興味本位でご当地の風俗店に入ったのだが、後日口の中に違和感を感じ、ネットで調べたところ自分が性病かもしれないという結論に至っていた。自分だけならまだしも、付き合っている彼女にまでそれを移してしまっていた可能性があることを知り、当時の私は絶望していた。あれほど、取り返しのつかないことをしてしまったと思ったことはない。すべての出来事は可変であり、手段さえ択ばなければどうにでもなると思っていたが、他人に移してしまったものはもうどうしようもない。私は恐る恐る性病の検査をしたが、なんと結果は陰性。ほっと胸をなでおろしたが、この経験によって私は、人生の「取り返しのつかない」要素を体感できた。

 

 性病に加えて、最近は老いを感じていることからも「取り返しのつかない」ということをひしひしと感じる。老いなのかただの怠惰なのかは分からないが、大学1年生の頃と比べて、明らかに体が動かなくなっていたり、手続き記憶の定着率が悪くなっていたりしていると感じている。もっと若いころは、すべては後からどうにでもなると考えていたが、もはや意思決定の1つ1つが自分に取り返しのつかない、クリティカルな影響をあたえているということに最近気が付いた。

 

 しかし、これらはある意味、ゲームのようなものではないだろうか?人生をゲームととらえるのは私の性格によるものかもしれないが、とにかく、そう捉えたときの私の人生は以前よりも刺激的に思える。

 今まで交流してきた人間が、どんな感じに落ちこぼれていくのか、正確に言えば、自分と比較したときにどれほど惨めな人生を送ることになるのかを見るのがとても楽しい。10年後20年後、彼らがどんな風に取り返しのつかない人生を送ることになったのかを見て、その体験について知れるのを想像するととてもワクワクする。

 

 逆に言えば、私の人生にも刺激が与えられる。これから自分の掲げる理想の人生を送るために、クリティカルな意思決定と迅速な思考が迫られるということに刺激を感じる。それはまるで、高度な知性を駆使するギャンブルではないだろうか?必要だと考えられるリソースを、いつ、どのように対象に配分するかを、なるべく素早くそして正確に考え、実行する。その際、自身の幸福を同時に達成したいという人間としての根本的な前提を覆してはならないが。

 

 おもしろい。私は今まで、死を忌避していたが、死があるからこそ生まれるエンターテインメントがあるのだ。

 このことを昔の高校生時代の自分に教えてやりたい。そうすればもっと人生を楽しめるから。もっと、全身で幸福を感じたい。ジェニーハイのライブのときのように。