何かこう、違う気がする。。。。
こう、自分が常識人になっていくような感覚が嫌だ。
いや、それは自分が夢見た社会性の発達ということでうれしいはずなのだ。
しかし、なんだろう・・・。
久しぶりに実家に帰って、実家のカオスさというか、社会性のなさを改めて実感して、もう年末年始でも帰ってやらないでおこうという気にもなった。
友人達にも久々に会い、とても楽しい時間を過ごしたが、少しずつ価値観のずれが生じていくのだろうなと思い、少しだけ違和感を感じた。
私自身も、私の周りもまるで無常を体現するかのように変転する。
狂気とは何だろうか?私自身が過去にあこがれた、世界を突破する唯一の可能性である。それは別の名でいえば「悪」であり、「サイコパス」であり「非道」だった。
不老不死を本気で臨んでいたあのころの自分とは今は明確に違う。
「今」を生きる私は、地に足ついた行動・振る舞いが比較的にできるようになった。
しかし、それは今までの人生の否定ではなかろうか?
私は狂気であったがゆえに、世俗一般の交流は絶ってきた。それが意図的であろうとなかろうと。だからこそ、今のような私の立場があり、地位があり、能力があり、交友関係がある。これは、狂気の延長線上の世界だ。もちろん、凡(何となくこう表現したい)の世界の展開に応用することだって可能だ。
んーー。なんだろう、実家に帰ってからどうも調子がおかしい。
なんとなくやる気が出ない。やる気とは、行動し始めて初めて生まれるものだが、今のわたしは前ほど、やる気がでない。やり始めても、やる気が出ない。
まさか、アイデンティティに問題なのか?そんなまさか・・・・。
自分がどういう人間か、何が好きで何が嫌いか、どうやって生きていたいか、あるいは死にたいか、少なからず自分の中で決着はついているはずだ。
1つの可能性として、その決着がついた個人のアイデンティティと社会的アイデンティティの折り合いがついていないのかもしれない。
今のわたしの個人のアイデンティティは凡である。狂気ではない。不老不死も体のロボット化も望んでいない。限界を受け入れ、自分の身体感覚を受け入れ、何もかも受け入れたうえで直進する。これは狂気ではないはずだ。はたして、これが社会的な、あるいは自分の今までの人生に一貫するだろうか?
もし、ここで私が三島由紀夫の本を読んで、ふたたび真実の狂気を取り戻したとして、なにか解決するのだろうか?それは、ある一つの面から切り取った時の正解に過ぎない。幸福の形は人それぞれである。
何が正解という話はもうしない。正解はそのときどきによって異なる。終わりだ。
私はもう正直、今なら死んでもいいと思っている。
何も未練はない。この世に何かしらの絶対的なものが存在していたならば、それはそれでその「もの」の獲得に尽力するが。
まてまて、お前はまだ21歳だ。何を早まるのだ。いや、早まってはいない、能動的な希死念慮ではない。何か、二つ二つの場が来た時に、私は死ぬといっているのだ。
まさか、新たな形でニヒリズムを感じているのか?
いや、、、、なんだろう。問題はそうなったんではない。
ニヒリズムが生じた原因を探ることだ。
ああ、やはり私の母親だ。母親が悪なのだ。そうだ、悪だと決めつけろ。
あいつは有害な存在なのだ。あいつは私をこんな風に育てた。だからあいつは
私のどうしようもないやりきれなさは、私の相対的なものの見方と、優しさが母親を責めることを止めていたのかもしれない。いや、きっとそうだ。
どこかで甘かったのかもしれない。自分の母親が、社会性を獲得して、自分に真の愛情を注いでくれるはずだと期待していたのかもしれない。
そんなわけはない。もう母親は信じない。あいつは人生を、あいつの咲ける場所で咲いてほしい。私はもう関係ない。私は21歳だ。もう大人だ。自分でお金だって稼げる。時給4000円で稼げる。そもそも、私は子供からずっと大人だった。あいつの手を借りたことなんか、ほとんどない。自分の力で生きてきた。自分の力を信じてきたんだ。
俺は、俺のコミュニティを作り上げる。幸せな家族を持つ。そこで、2人か3人かの子供を授かって、彼らに幸せな人生を送ってほしい。なんか泣けてきた。
それが、私の生きる目的だ。そうして幸せを経験できた子供が、大人になって、世の中に幸せを分け与えてくれれば、もうそれでいいんだ。
そのために、お金を稼ぐ。そして、日本という自分が住むこの社会もよくする。
「愛国心」はこの世でもっとも美しい「徳」だ
子を守るため命をかけるのは動物も同じだが
国の誇りのため命をかける事が家族を守る事につながると考えるのは「人間の気高さ」だけだ………
狂信者とはまったく違う心