本当の自分なんてわかりっこねえんだよなあ あらやしき

 

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覚醒DIO

 私とは、いったい何者なのだろうか?

 

こうした自問自答を繰り返す人間は多いのか、少ないのか分からないが、少なくとも私は自分という存在についてよく考える。

 

自分について考えるとき、決まって私は何かに懊悩している。例えば、人間関係でうまくいかなかったり、自分の立てた目標を達成できなかったりしたときだ。そうしたとき、「なぜうまくいかないかを考えたとき、一番の理由は自分自身が間違っているからだ」と考える。だから、何かしらのモデルを設定して、つぎの課題解決に取り組むのだ。

 

今まで何人ものモデルを自己の中に創出し、そのモデルがまるで自分であるかのようにふるまってきた。これはいわゆる中二病の症状の一つであり、自己と外界の区別が曖昧な思春期に頻繁に起きうる。私はつい最近まで(もしかしたら今もかもしれないが)この、自己を何らかの鋳型に流し込む行為を頻繁に行ってきた。

 

その行いの功績はとても大きいと思っている。何故なら、元々のスペックや環境からはほとんど予測が不可能だと言っていいほどの輝かしい経歴を自分が手にしているからだ。具体的にいうと、月2ほどしか幼稚園に行かなかったり、小学校では毎回お腹を下して昼休みに遊べなかったり、あるいは仮病を頻繁に使って学校を休んでいたり、習い事はそろばんしか続かなかったり、あるいは他者との人間関係を濃密に作り上げられなかったりという、悲惨な「スタートライン」に立っていたのにもかかわらず、私はこの

「自分を何かに流し込む」という、いわば演じる行為によって数々の地位や成績を獲得してきた。誰もが羨む美少女と一時期恋仲になったり、校内で1位の成績を獲得して、クラスメートのみならず同学年の人間から崇め奉られたりした。運命は私に味方したのか、容姿もそこそこ優れたものになった。身長は180cmを超えているので、異性が男性に求める理想の身長の条件を優に満たしているし、同性からの無条件の羨望も得られる。顔は良く小顔だと言われるし、顔における美しさの基準の一つである鼻は高く、よく通っている。もちろん今あげたのは「良さ」のほうであり、「良くないところ」もいくつか存在する。それでも、私は自分の生まれた劣悪な家庭環境・幼少期の対人経験の乏しさなどを考慮すると、あまりにも輝かしい人生の一途をたどっているといえる。

 

このように、私の中の成功の必要条件は、「理想のモデルを演じること」だと経験的に理解している。それは言い換えると、「~しなければならない」という第3者からの声に従うということだ。

ところが、私は最近、「あらやしきはどうしたいの?あらやしきが好きなように行動していいよ」というように、自分の真なる内的動機を問われるような場面によく遭遇する。これは、新しくできた友達との遊びの場であったり、あるいは、就活で自己分析をする過程だったりする。

 

この内なる動機を聞かれると、答えに窮する。何故ならば、先ほど言った通り、私の行動は「~しなければならない」という外的刺激に対する、衝動のようなもので動いているからだ。それは多く、自分の問題を解決するため、あるいは集団の問題を解決するための衝動だ。マイナスを0にしたり、プラスにしたりしようとするのが、私の動機なのである。何も問題がなければ、のほほんと暮らしている。自分以外の人間が一部行うようものは、ときに無意味なことのように思える。そう思うほど、私は問題意識が強い人間なのだ。

 

だがしかし、このような義務感的な衝動ばかりで人生を埋め尽くすのは、幸福ではないと思う。鏡に映る自分の姿がいかに滑稽であっても、それを是とする人生は幸せではない。神条柴杏がその好例である。哲学の授業でも再考したように、人生の価値とは目的的価値だ。何らかの理想像を設定して、それになろうとしたりなったりすることが幸福なのだ。しかし、その理想像が他者に100%依存してはならない。正確に言うと、自分自身を大切にしなければならない。

 

以上の体験ともの思いから、私は自分の本当にやりたいことは何かをここ数日だけだが、考えるようになった。おかげで、色々やりたいことがあるということに気が付いた。私は自分でも気づいていないくらいに、人間のことが好きだ。友人や愛する人と時間をともにすることが、自分にとって最上の喜びの一つでもある。ジョジョで言えば、黄金の精神だ。この黄金の精神が自分にもきちんと宿っているということを自認してから、東方仗助のことをすきになったし、その他の主人公に感情移入できるようになった。そのほかにも、他者の死を悼むようになったり、この世界のことをより深く理解できるようになった。

 

そう、黄金の精神は素敵なものだ。

 

でも、黄金の精神と結果主義は何ら矛盾しない。この真理に、ここ数日の懊悩から辿り着いた。

 

私はDIOが持つような結果主義と、黄金の精神の両方を備えていると思う。

作中では、5部のジョルノが最も近いだろうか?

どちらかというと、戦いや知的好奇心を十分に楽しむのでDIOのほうが私のイメージに近い。

 

ともあれ、「~しなければならない」という(自分のことであれ集団のことであれ)問題を解決しようとする衝動と、愛や友情などのような暖かさのため「覚悟」の行動を厭わない黄金の精神は、何ら矛盾しないと思う。

 

結果主義で反人道的だと思えるDIOだって、自分を生んで育ててくれた母親を苦しませた世界を憎む心、すなわち「他者を思いやる心」=黄金の精神ともいえるような動機から、結果的にあのような行動をしている。

 

4部の虹村慶兆だって、主人公や億泰、それに康一に対しては酷い行いをしたが、その行動の動機はお父さんを楽にしてあげたいという心=黄金の精神の一部ともいえるような動機から、他者を傷つけるような行動をしている。

 

また、今紹介した事例は仮想作品の中でもものだが、現実世界でも同じようなことは起きる。

私がつい最近体験したことだが、私が店長のことが嫌いだからアルバイトをやめると社員さんに告げたとき、彼は非論理的に私を非難してきた。それは、一つにはきっと黄金の精神ともいえるのかもしれない。なぜなら、「愛」由来の行動だからだ。人は、そのほかの人間や集団に愛着を見出すことで、主体的に行動することができる。社員が私を非難してきたのも、きっと愛ゆえのものだ。

 

黄金の精神と愛は、(今のところ私の中では)同義だ。

 

作品では、愛の範囲が広ければ広いほど主人公サイドに抜擢されやすく、狭ければ狭いほどラスボスに採用されやすい。

 

単純な悪を成敗するよりも、敵も何らかの正義=愛=黄金の精神を持っているほうが、見る側からすれば作品がより味わい深いものになるからだ。

加えて、現実世界もえてして、そのような正義の衝突が問題の原因だと考える。

 

パワプロクンポケットでも、クロノ博士が正義と悪についてこう述べている。

「(ねえ、博士。正義や悪ってなんなんでしょう?レッドが悪いやつだと思うから野球で勝負して追い出したんです。でも、たしかにあいつのおかげでチームは強くなったし甲子園にも行けるようになった。俺のやったことは正義なのか、それとも悪なんでしょうか。)
ああ、そりゃあ簡単なことじゃ。『正義』の反対はなんじゃな?(悪じゃないんですか?)
悪の反対は善、善の反対は悪じゃ。『正義』の反対は、別の『正義』あるいは『慈悲・寛容』なんじゃよ。(え?)正義とは、人の従わねばならん道理を言う。『正義を行う』となれば道理を守らせる、ということにもなる。(それはいいことなんですか?)もちろん、必要なことじゃよ。問題は道理が一つでないことじゃ。『殺すな、奪うな』までは、ほとんどの思想で共通じゃがな、その先はバラバラじゃ。『男女は平等』かもしれんし、『女性は守るべきもの』かもしれん。『どんな命令でも忠実』が正義なら『悪い命令に逆らう』のもまた正義。(じゃあ、何が正しいんです?)みんな正しいんじゃよ。道理に関する限り、正しい事は一つと限らないんじゃ。(でも、それじゃ困りますよ。なにが正しいのかわからない!)だから、法がある。なにをしてはいかんかの約束じゃ。…これも正しいとは限らんがね。じゃから、結局のところはその時ごとになにが正しいのかよく考える必要があるじゃろうな。結局のところ、みんなにとって最も良いことを探して選択するのが『善』なんじゃろう。じゃから、正義は善とは限らん。ともすれば自分の信じる道理を他人に押し付けることになるからな。(…よくわかりません。)じゃあ、最初の質問に戻ろう。やらなきゃならんと思ったから、やったんじゃろ?本当にそれが正しかったのか最善のやり方だったのか、ときどき反省してみるんじゃな。いずれ、自分で納得できる時がくる。(はぁ。じゃあ悪ってなんなんです?)一般的な定義から言うと、世の中のルールを破って、他に迷惑をかける行為じゃな。(でも、博士は『悪』なんですよね? どうしてわざわざそんなものをやってるんですか?)わははは、一般的と言ったじゃろ?ワシにとって悪はロマンなんじゃよ!ロマン。分かるか?ルールに囚われないことじゃ!希望、生命力、突破点、新しいもの。幸せになりたいという欲望!昔は、科学も自由も人権も平等も、みーんな『世の中の平和をみだす悪』だったんじゃよ。(まさか!)なあに、ちょこっと歴史の本を読めばわかることじゃ。それじゃあな、少年!若いうちは悩んでおけよ!わははははははは!」クロノ博士

 「結局のところはその時ごとになにが正しいのかよく考える必要があるじゃろうな」という文言は、道を切り開くうえで大切な考え方だ。何故なら、クロノ博士も言っていたように、正義とはその時その時で変わるからだ。

 

 黄金の精神と結果主義はなんら矛盾しない。そもそも結果なんて曖昧なことばは使わないほうがよいのかもしれないなぁ。

 

 自分はジョジョの主人公も好きだし、ラスボスも好きだ。皆が皆、何らかの希望をもって、何らかの嫌な体験をして、それを踏まえて熱烈に行動している。人間賛歌。うん、好きだ。だから、私も私が好きだ。ことあるごとに悩み、そのたびごとに答えを模索して行動する。結局、自分が本当は何者なのかなんてわかりっこない。言葉で定義できるものではない。ただ、しかし、共通して一貫して私に言えることは、精神力が強烈だということ!!人間賛歌!