「~しなければならない」なんて義務感は捨てろ!

 

 哲学の授業で、人生の意味について議論した。

 

そもそも意味(価値)には、いくつかの種類がある。道具的価値であったり、目的的価値であったり、最終的価値であったり、とにかく色々な種類がある。

 

では、人生はどのような価値を持つ?

 

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私は、今まで人生を道具的価値として捉えていた。自分の家庭での役割であったり、あるいは神条柴杏や三島由紀夫による影響が大きい。しかし、道具的価値は無限後退に陥る。だから、道具的価値は人生の意味に据えるべきではない。いつか、その虚無に辿り着く。

 

 

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人生とは、目的的価値を内包する。自らが抱く理想像になろうとしたり、あるいはなったりすることが、最も価値のあることであり、疑いようのない真理だ。

 

義務感で動くなんて、阿保らしい。私は気づいた。「~しなければならない」というのをやめて、すべて「~したい」と言い換えるようになってから、私は人生を余すことなく体験している感じがする。

 

 

では、私の理想像とは何か?敢えて言語化する必要は、一度切りだけでいいと思うし厳密にする必要もないと思うが、現時点での私の理想像は、

 

 

人を無意識に傷つける馬鹿者どもを懲らしめ、そしてそのような人間が生まれないような世の中を作るということだ。

 

それが私の社会的使命である。人間は皆、共に生きなければならない。そのために私は物事に取り組みたい。