どうも、はじめまして。あらやしきと申します。
この記事を見に来てくれたということは、少なからず自殺を考えている方ですね?(あるいは、なぜ自殺をしていけないのかを知りたい方でしょうか)
「自殺 いけない 理由」みたいなワードで検索をかけているだけ、”マシ”なほうですが、自殺を少しでも選択肢に入れているなら世界最大級の愚か者です。
かくいう私も、一度は自殺を考えたことがある身です。
しかし、これからお話しすることは、私が自殺をしようとしていたかどうかは全く関係ありません。自殺を考えるほど辛いことがあったんだね、なんて同情の言葉もかけません。
これから、あなたを論破します。
自殺という選択肢が、誇張なしに世界でもっとも愚かで、ばかげていて、つまらなくて、もったいない行為だということを、あなたに証明して見せます。
この記事を読み終えるころには、
「どうして自殺なんて考えていたのだろう??自殺なんてやーめた!」
と考えを改め、そして、二度と自殺を考えることがなくなります。
ということで、さっそく貴方を論破しようと思うのですが、自殺の動機にはいくつかのパターンがあるので、あなたに当てはまる目次から記事をお読みいただいて構いません。
それでは、始めます。
パターン1:辛いから自殺したい
自殺したいのは、生きていることが苦痛だから。
他のパターンもよくよく考えると、このパターンに集約されると解釈することもできるのですが、ここでは主に、身体的・精神的苦痛に起因する自殺について考えます。
平成30年における自殺の概要によると、自殺の動機は
①健康問題(10,423)
②経済・生活問題(3,432)
③家庭問題(3,147)
④勤務問題(2,018)
⑤男女問題(715)
⑥学校問題(354)
⑦その他(1,081)
という内訳になっています。(カッコ内の数字は、単位(人)を表す)
⑦のその他については、真相は不明ですが、恐らく①~⑥の場合が、このパターン1:辛いから自殺したい に当てはまるでしょう。
「事故のせいで、●●(体の一部)が機能しなくなってしまった・・・自殺しよう・・・」
「新型ウイルスで失業してしまい、生計が建てられない...自殺しよう...」
「親から虐待される日々が辛い...自殺しよう...」
「仕事がうまくいかなくて辛い...自殺しよう...」
「パートナーから裏切られた...自殺しよう...」
「学校が楽しくない...自殺しよう...」
人によって、自殺を考える動機や背景に差はあれども、多くはこのような状況にまとめられるでしょう。
ところで、自殺を考える上で、絶対に通らなければいけない思考過程があります。
自殺を考えている貴方なら共感していただけると思います。
「このまま生き続けるよりも、死んだほうがマシだ...」
そう、相対的に人生を顧みたとき、生より死のほうがメリットがあると考えるから自殺するもの皆自殺するのです。
生<<<<<<(越えられない壁)<<<<<<死
生きているほうがメリットがあるのに、わざわざ死ぬ人なんていませんよね。
この前提はとても大切です。なぜなら、私は今からこの不等式を論破するからです。
きちんと、頭に留めておいてください。
話はパターン①:辛いから自殺したい 人に戻ります。
このパターンでは、考え方や思想が2通りに分けられます。
1つは(1)魂が存在すると考えている人
もう1つは(2)魂は存在しないと考えている人
です。
パターン1:(1)魂が存在すると考えている人
このタイプの方は、「魂は存在する。だから、今苦しんでいる身体にピリオドを打ってしまえば、また新しい生命を授かって、別の人生を歩むことができる」と考えている方です。
魂が存在するというのは、言い換えれば死後の世界が存在すると考えている人でしょう。
単刀直入に言います。死後の世界が存在すると考えて自殺する人間が、他のどのタイプの自殺者より5000兆倍馬鹿です。
なぜならば、死後の世界が存在すると仮定する思想(宗教)では、自殺は最悪の行動だと考えられています。具体的に説明しましょう。
世界三大宗教の一つのキリスト教では、自殺は神様の体を破壊する行為だと考えられています。十戒の「人を殺すな」というのは、他人だけではなく、自身を殺すのも明白な殺人であると解釈されています。というのも、人間は神様の形状を持っているので、自殺はヒトの中にある神様を破壊する行為だと考えるからです。自殺をすれば当然、地獄にいくというのがプロテスタントの考えであり、また、自殺者には葬儀ミサを挙げることもしません。ちなみに同じ唯一神を信じるイスラム教でも同様の見解がなされています。
また、仏教でも同様に自殺は、魂に罪が課せられると考えられています。
キリスト教・イスラム教では身体を神のコピーとして見ていましたが、仏教は違います。仏教では、人生とは神が下りたのではなく、前世の業が集まって作られた自律体なので、自殺したからと言って、神に罪を犯すというわけではないというのです。
しかし、自殺をするということは、(特にこのパターンでは)人生が苦痛だという理由で死ぬということなので、苦痛の根本原因を消すことができない。
これは、来世の魂に業が引き継がれるか、あるいはさらに業が増して、より一層の苦痛を受ける生命として生まれ変わるというのです。
他にも、儒教や老荘思想、道教などの宗教でも、自殺は両親や神に対する冒涜であったり、結局は自分の魂に罪をかぶせることになったりするので、自殺はよくないね、という見解がなされています。興味を持たれた方は、ぜひインターネットや図書館で資料を検索してみてください。
以上より、死後の世界が存在する と考えているのに 辛いから自殺したい と考えているひとは単純に勉強不足であり、愚か者だということがお判りでしょう。
では、もう一つのタイプを一緒に考えていきましょう。
パターン1:(2)魂は存在しないと考えている人
このタイプは、「魂は存在しない。たとえ自分がどれほど頑張っても、来世以降に報われることなんてないんだ。だから、今自殺したいと思うほど苦痛を感じているのならば、死んだほうがいい。」と考えていることでしょう。
先ほどの(1)魂は存在する と考えている人に比べれば、幾分か理性的な判断ができていますが、自殺を考える時点で痴れ者なので、賢さは下の中といったところでしょうか。
このタイプは、世界はまるで箱のようなものだと捉えていると私は考えています。
閉じた箱の中は、一つの一貫した物理法則に支配されている。
私たちが意思を持っているのは、魂のおかげではなく、身体の中の生物学的な構造のおかげだと考えているのです。
そういうことではないでしょうか?魂の存在を否定するのならば、我々の体が動くのは、外界から食物や空気などを取り入れることで、動力となるエネルギーを得ることで体は動き、成長し、衰えていくと考えるべきです。
そこまでたどり着いたのならば、自殺をすることが馬鹿らしいということがすぐにわかるはずです。
つまり、世界は虚無であることを逆手に取ってしまえばよいのです。
今、あなたがいきている世界は、閉じた世界であり、貴方の行動が来世に引き継がれるということもない。すなわち、徳や倫理というものは存在しないに等しいのです。
冷静に考えてみてください。あなたが何らかの理由で、自殺を選択肢に考えてしまうほどの苦痛を感じているのならば、なぜその苦痛を取り除こうとしないのでしょうか。
恐らく、この問いに対して予想される返答は
「法律的に不可能だから/世間が許さないから/そうするのが怖いから」
恐らくこの3つに大別されると思います。1つめと2つ目に関しては、丁度さきほど出したヒントで、すぐに論破できることに気付きますよね。
すなわち、法律や世間や倫理などは、この世の仮初のルールでしかないということです。
今のあなたの前提から、「この世に守るべき絶対的なルールは存在しない」ということが導けるということは理解できると思います。
魂があると仮定してしまうと、どうしても倫理や道徳が人生の最大の目標になってしまいますが、魂がないと仮定すると、そんなしがらみからは解き放たれます。
ということは、あなたはこの世界で何をしてもいいのです。
貴方の自殺の要因となっているものが、人間ならば、その方を手段は問わず撃退することを考えましょう。(敢えて手段は問わず、とぼかして表現しました)
経済的な理由で自殺を考えているならば、リスクを取るのならば、色々な犯罪が思い浮かびますが、幸運なことにここは日本です。
政府が積極的に宣伝しているわけではないので、普通に生きていれば思いつかないと思いますが、政府は社会的弱者にやさしい救済措置を用意してくれています。代表的なものが、生活保護制度でしょう。生活保護以外にも多様な救済措置を用意してくれています。何せ、日本ですからね。頼るときは思い切り頼りましょう。
「いやいや、たとえ自殺の要因に対して、そういう風に対策できるとしても、自分はもうこの世界に疲れたから自殺するよ」
このようにまだ痴れ事をほざく人間がいることでしょう。とても怠惰な人間だと思いますが、人間の脳のメカニズムを考慮すると、このような判断が出てきても仕方がないことだとは思います。
人間の脳についてどれほど知っていますか?たとえば、貴方の「判断」というものは、一見、論理に基づいているようで実は感情、あるいは単なる物質によってその「判断」をするように仕向けられているという場合がほとんどです。
また、自殺をしようとしている貴方でも、過去を振り返れば「必ず」楽しかった経験があるはずです。人生そのものを、生きることそれ自体を心から楽しんでいた経験が。
「いや、自分の過去は暗いものばかりだったよ。」
そんなはずはありません。論理的におかしいのです。何故ならば、「辛い」とか「楽しい」などの感情価は全て相対的なものです。これは脳、というより神経学的観点から正しいのです。
つまり、辛い経験ばかりしているのならば、「辛い」と感じることはないということ、それを当たり前だと感じるに違いないのです。あなたは絶対に、過去に楽しい経験をしている。
なぜこのような現象が起こるのかと言うと、これもまた脳の仕業なのです。
長くなるので簡潔にまとめますと、我々が記憶と呼んでいるものは、パソコンに保存されているデータのような固定的なものではなく、再構成的なものなのです。
再構成、というと少し難しく思われるかもしれません。比喩的に言えば、記憶とはスライムのようなものだと考えてもらって構いません。
小学校や幼稚園に通っていたころ、スライムが友達だったかたもいらっしゃるのではないでしょうか。あの柔らかくて弾力のある不思議な色をした物体は、子供の興味を引くのにうってつけですよね。
そのスライムのように、記憶というのはとても変容しやすい物なのです。
ここからがとても大切なのですが、その記憶が変わってしまうタイミングはいつなのかといいますと、記憶を意識に呼び起こした時です。
何回も何回も意識上に呼び起こされることで、その記憶は他の記憶よりもはっきりしたものになっていきます。
そして良い意味でも悪い意味でも、その記憶は、呼ぶ起こされ方次第で、記憶の中身が変わってしまいます。例えば、貴方がカラオケの採点機能で98点の点数をたたき出したことがあり、そのことを友達に語る際に、「友達に自分の歌のうまさを自慢したい」という考えをもとに喋ってしまった時に、「カラオケで100点の点数を出したぜ」と事実とは異なることを語ってしまったときを考えてみてください。この場合、貴方は記憶を上書きしてしまう可能性があるのです。人間は、頻繁にこうした記憶の書き換えを行っているのですが、なかなか自分で気づくことはできません。
このように、貴方の辛い記憶は、事実ではないのです。部分的に事実ではあっても、貴方を構成する過去がすべて、辛いとは限らないのです。
さあ、少し長くなりましたね。気晴らしに猫で見て一息つきましょうか。
もしあなたが辛い体験をして自殺を考えており、そして魂は存在しないと考えている虚無的な人間であれば、自殺がどれほどばかげたことかおわかりいただけただろうか。
以上より、パターン1:辛いから自殺したい と考えている人を完全に論破しました。
恐らく、この記事のおかげで自殺する人は少なくとも5割は減少すると見込んでいます。そう願っています。
パターン2:生きている意味を見出せないので自殺したい
欅坂46というアイドルグループが乃木坂46の後にブレイクしたのを覚えているでしょうか。「二人セゾン」「ガラスを割れ!」あたりが有名なのでしょう。
彼女たちの楽曲の一つに「避雷針」というものがあります。
まあ欅坂46の雰囲気自体にも当てはまるのですが、特にこの曲を聴いていると、「生きている意味が見出せないので自殺したい」人を思い出します。
このタイプは、「生きる上で不自由はしていない。食べ物だって十分にあるし、睡眠も十分にとれているし、友達もそれなりにいる。でも、生きる意味が見いだせない。苦痛は感じていないけど、強いて言えば、何のために生きているか分からないから自殺したい」と考えています。パターン1の方々からすれば、激昂ものですよね。何を贅沢言っているんだ、と。
ところが、このタイプは全く笑い事ではないのです。むしろ、パターン1よりもシリアスだと私は考えています。パターン1の場合は、マイナスを0に戻せばよかったのですが、この場合は0を何とかしてプラスにしなければならない。
このタイプは現代人にとても多いように思います。生きるための材料は全て揃っているが、どうも幸福を感じることはない。
将来に何かしらの野望を抱いているということもない。冷めた目で自分自身を見つめる自分が、心のどこかにいるという感じ。
これは恐らく、グローバル化やIT化の負の産物だと思われるのです。それらが発生する前の時代は、人間は何かしらのコミュニティの論理が全てであり、自分の力を社会にぶつけて何か一つ変革でも起こしてみるか、という気に容易になることができた。
ところが、グローバル化やIT化が進むことによって、コミュニティの境界線は曖昧になり、世界は以前よりも「現実的」になってしまった。
すなわち、自分の力が世界に対してどれほど通用するのかを把握し、また、世界を動かすにはどのような条件が揃っていなければならないかが可視化されてしまったのです。
そればかりか、現代まで人々の思考の軸となっていた宗教は、科学によってその存在を根底から覆されつつある。
つまり、世界に神秘やロマンは存在しないのだ、という虚無的な世界観が世間に蔓延っているということです。
この考えは、先ほどの紹介したパターン1:辛いから自殺したい のうちの (2)魂がないと考えている人 にも見られますね。
『涼宮ハルヒの憂鬱』のような世界は存在しないのだ。
誰か一個人の願いが、そのまま世界を揺り動かすということはあり得ないのだ。
この世のすべては、当人の努力と才能、または家の出自や環境によって決まっている。だから、やりたいことがあったとしても、自分の状況を考慮すると不可能だからあきらめる。
そうして作り上げられたギブアップ精神の末路が、「生きてる意味がないから自殺したい」という思いに繋がるのだと思います。
さて、お待たせしました。論破タイムに入ります。
サクっと行きますね。
①世界は虚無であり、この世界に絶対的な価値は存在しない。
というのが、このタイプの前提でした。
この前提からは、生と死が等価であることが導けますよね。
なぜなら、この世界に意味がないのならば、死ぬことになんて意味もないでしょう。
「生=死」
おや、いつのまにか論破してしまいましたね。
私が初めに言ったことを覚えていますか?
生<<<<<<(越えられない壁)<<<<<<死
自殺をしたいと考える人間の前提は、こうでしたよね。
ところが、この虚無的なタイプの前提は
「生=死」
という風に、自殺を考えている人の前提と矛盾します。
それどころか、よくよく考えてみてください。虚無的な人でも、生活する中で幸福を感じる瞬間が絶対にありますよね。不感症でもない限り。
アフリカのどこかの集落では、日本の生活レベルと比べるととても低い生活レベルで生活をしているのに、とても幸福に生活を送っている人がいると聞きました。
幸福はあくまで、絶対的なものではなく、相対的なものなのです。世界の捉え方次第で、自分の人生は輝きます。
あと、普通に死ぬのって怖いと思います。痛いし。
以上の事柄より、先ほどの前提は
「生>死」
に変わりませんか?変わりますよね。はい、論破しました。
私は実は、このタイプの人間でした。世界は虚無であるから、何をしても報われない。どうして皆、そんなに頑張れるのか分からなかった。世界に絶対的なものなど存在しない。幽霊がいてくれたら、人生に少しは期待できるのに。そう考えていました。
ところが、私はこの虚無的世界観は、この前提によって生きることのすばらしさを教えてくれることに気が付いたのです。逆説ですね。
倫理や法律、風習はすべて人間が作り出したもので、絶対に守るべきものではない。
だけれど、それがあることで世界の秩序は保たれ、人々は生をより幸福に享受できる。
それに、しがらみがないのならば、自分の「衝動」の赴くままに行動してもよいのだということだ。そして、その「衝動」に従って幸福になれるということは、先ほどの前提から死ぬことと等価だということが導かれる。
私は、死にながら生きている。生きながら死んでいる。
という風に、私は虚無的価値観を乗り越えました。
そもそも生と死に境界線はないのだ、と。これはニュートンの特別号の誰かのインタビューでも書かれていましたね。養老孟子さんだったかな?
実に高校2年生から約6年かかりました。とても、とても長い時間でした。
乗り越えた瞬間に、感覚的に「思春期が終わったな」と思いましたね。(笑)
思春期とは、世界や人生の意味を考える時期です。
だからこそ、そんな重要な時期に自ら命を絶ってしまう学生が本当に惜しいのです。
さいごに
さいごらへんは、論破というより語ってしまいましたね。(笑)
途中途中、傲慢な口調に腹を立てた方もいるかもしれませんが、それほど自殺することは愚かなことです。
この記事がどれほど多くの人に見てもらえるかは分かりませんが、できるだけ多くの人に見てもらいたいです。拡散していただけると助かります。
とても長い記事になりましたが、これで以上になります。ありがとうございました。
P.S.
私の考えに反論できる方がいれば、遠慮なくコメントしてください(笑)