とにかく書いてみる

みなさん、おはようございます。

今は午前2時を過ぎております。夜も更けてしまって、私以外に起きてる人なんかいないんじゃないだろうか。いや、そんなことはない。

 

久しぶりにブログを書きます。書こうと思っていた瞬間は、前の記事を書いた時から度々ありました。でも、なんとなくブログを実際に書くまでには至りませんでした。

 

卒業旅行にも行きましたし、新しくできた彼女とかけがえのない、忘れたくない時間を過ごしました。私はそのたびに、これはブログに書いておこう。嫌なことよりも楽しかったことを書いて、残しておこう。そう思ってブログを書こうとしましたが、実際に書くには至りませんでした。

 

私はどうやら、自己成長のためにモノを書くような気がします。

自己表現でもなく、将来の自分に対して有益な情報を提供するためにブログを書いている気がする。

 

そうなると、その当時の楽しかったことなんか書く必要なんかないわけですね。何故なら、楽しさというのは思い出の追体験よりもその瞬間に感じるものが本物だし、文字ごときで当時の感情体験を再現できるわけではないと思うからです。

 

本当にそうだろうか。なんとなく面倒くさくてやらなかったことにそれっぽい理由をつけているだけかもしれない。

 

とにかく、今のわたしの文章に一貫したメッセージはありません。

 

何故なんだろう。構造化して書いてみる。

 

①本当の意味でニヒリストになったから

②彼女ができて、ありのままの自分でいることに慣れてしまったから

 

①ニヒリスト

 私は昔からニヒルことが多い。「この自分の行動に何の意味があるんだ」この世界に根本的な価値や意味、目的がないことに絶望を感じていた。虚無的な世界に抵抗するべく、輪廻的な世界の存在を裏付ける幽霊や霊魂の存在について研究したこともあった。編入したのは実はそういうところに理由があるかもしれない。今となっては、どうだか。

 2か月ごろ前からだろうか、私はニヒリズムをいったん心の中から消して、神様を信じるようになった。それによって、心の安寧を図った。この世界は、続きがあるのだと信じた。そうすることによって、私は今の自分の感覚に集中することがよりできるようになったと今では改めて思う。

 しかし、今の自分に集中することは、逆に言えば、何かしらの崇高な目的を持たないということにもなる。例えば、今までの私の行動原理はニヒリズムの否定であった。世界を変えるために、すなわち、永久に持続する世界を創ることが私の全ての行動原理であった。ところが、この世界はそもそも永続的なシステムであることをいったん信じてしまったがゆえに、私のそれまでの行動原理はたちまち崩壊してしまった。

 だからこそ、今まで意識高くやっていたことを忽ちできなくなってしまったのかもしれない。

 

 話は変わるが、最近はめっきり承認欲求がなくなった。昔じゃ考えられないほどに。昔は、周りからセンスがあると思われたかったり、かわいいと思われたいがために、偽りの自分を作って周りからの反応をうかがっていた。ダンスもその一部かもしれない。

 しかし、この世界は永続的だと考えたときから、そういう承認欲求がなくなった。分からないけど、見栄を張るということがまるきりなくなったような気もする。

 

②彼女ができてありのままの自分でいることに慣れたから

 今の彼女は、私が4.5歳くらいだったころの自分をまるきり受け入れてくれる母親のような存在だ。つまり、私のことを可愛いと言ってくれて、撫でてくれて、変なダンスをしても反応してくれる。頭を撫でると撫で返してきてくれる。かわいいと思う。

 

 昔の自分は、めちゃ可愛い。語彙力なくなっちゃう。今でも。

大人モードにならなければ、難解な文章なんか絶対に書けない。私は今までそういう自分が親や、恋人や周りの大人から否定されてきたから、かっこいい自分を作り上げてきたのかもしれない。

 

 ベジータかも。ブルマと結婚して子供ができたときのベジータ。少し腑抜けてしまったときのベジータTwitterには、結婚しなかったベジータのようなコンサル垢の方がたくさんいらっしゃるが、私も有能であり、かつ孤独を貫いていたらああなっていたのかもしれない。

 

 

何が正解で、何が自分にとって幸福かが分からない。

昔は柴杏からアドバイスを簡単にもらえていたが、今となっては心の中に柴杏はもういない。

ただ、昔と比べるとかなり人間的な成長をしたことは流石に分かる。それは、バイト先の社員さんのおかげでもあると思うし、サークルの皆のおかげでもあるし、ずっと仲良くしてもらってる友人のおかげでもある。

今、そういう人たちの顔を思い浮かべると心があったかくなる。昔は、彼らの顔を思い出すこともできなかっただろうし、彼らに感謝することもあまりなかっただろう。自分の中に人間らしさが芽生えたのだろうな。

 

ブログに自分の思いを残すことは良いことだな、と今思う。頭の中で整理されていなくても、文字にして言語化することによって、頭が整理されるし、埋もれていた感情にも気付くことができる。自分を客観視することもできるから、より正しい選択できるようにもなる気がする。

 

 

全く別の話をしよう。

 

昔の私の記事を見返したが、あまりにも非論理的で話があちらこちらに飛んでいる。あれからいくつかロジカルシンキングに関する本を読んだり、それを活かして卒論を書いたりしたおかげか、あるいは、バイト先で言語能力が高くなったからか、あるいは大阪でボケやツッコミに敏感になったからか、自身の言語能力が飛躍的に高まっている。

 

逆に、あんな状態でよく就活がある程度成功したなと思うし、編入も成功したなと思う。まあ、人は努力をすれば成長できるのだなと改めて気づけて良かった。

 

 

そういえば、最近は性病の検査をした。ちゃんと陰性でよかった。もう二度とああいうお店にはいきません私は。

 

 

今の悩みは、自分を上手く幸せになれるようにコントロールできるようになることと、成長のためのモチベーションができるようになること、あと、対人関係について恐怖を抱かず交流を楽しめるようになること。

 

そのためにはまたニヒリズムの拒否に回帰する必要があるのかなあ。それはまた違う気がするなあ。ともかく、こういう自分に対して、今の現状でできることを考えるしかないのですわな。

てかもう23歳やで。びっくり。23歳ってちゃんとした大人やんもう。

いやもうそれなりに大人とは思うけどさ。

 

あー。なんかこう、自分の中でニヒリズムを否定したいという欲求と、自分のこれからのうっすらみえる将来像に矛盾が起きてるのが嫌やねん。

俺はもっと、自由に生きたい。世の中の全ての物事がどう起きるか、見てみたい。でも、どうしようもない。この信念を守るために、一時的に神を信じる。いや、待てよ。

 

霊魂が持続するとはいえ、記憶が継承されるわけではないのであれば、現世で精いっぱい色々な体験ができるように頑張るべきではないのか?そうだそうだそれだ。