頭の中でリフレインする「模範」という言葉
ネットで検索して定義を調べても,「模範」という言葉の意味を理解できない。いや,概念的には理解できる。とあるコミュニティにおいて,メンバーが見習うべき,あるいは,見習いたいと思うもののことである。
高校生の頃,「お前にはクラスの模範になってほしい」と言われたことがある。私は全力で反射的に拒否をしたが,今になって思う。「あの頃,私が模範的な生徒になるというのは具体的にはどういうことだったのか?」
まず学業面で模範的な人間というのは,①毎日きちんと授業を受ける②良い成績を収める③クラスのみんなの学習意欲を高める,この3つのことが非常に大切だと思う。
模範の中身はコミュニティによって異なる
模範とはあくまで概念的なもの,Javaで例えると抽象クラスのようなもので,実装するためには具体的に記述しなければならない。コミュニティが変われば,模範も変わる。まじめでいることが模範とされる学校があれば,万引きなどの犯罪をすることが模範的だとされるヤンキーグループなどもある。
残念ながら今の模範に対する思考はここまで
結局,今の私が「模範的」になるためには何をすればいいのかわからない。そもそも,なぜ私が「模範的」になろうとしているのかもわからない。
今「模範的」になろうとしているのは間違いなく,自分の中で大きな変化だと思う。ここ最近,瞑想を通して自分に密着した生き方をしていて,さらにその上で外向的な性格も再びはぐくまれつつある。ただ,昔の外向性とは違って,価値基準や判断基準が豊かになったためか,このような「模範」に対する意識が芽生えたのかもしれない。
とりあえず今言えることは,自分自身を犠牲にしてまで模範になる必要はないし,なりたくないということだけだ。しかし,そんなことは本当にできるのだろうか?またこれもバランスという話になるのだろうが。ここ最近の鞘師を見ると,これがいかに難しいかが分かる。
自分の中の変化
例えばマッチングアプリで,「この人は茶髪だから無理!」とか「この人は自分とは違う容姿がタイプらしいから無理!」みたいに,相手のことをよく知りもしないでNOPEしてたりしてた。昔はね。でも,今は違う。この人は話してみたら実は違う感じかも,とか,容姿レベルで負けてるからふられるまえにやめようとか考えなくなった。好奇心?ともちょっと違う。先ほど言った「模範的」と絡んでいる気がする。模範的な人間は,こんなことしないと思う。
だからなんなんだ
おやすみなさい!