死の実感

 

昨日は人生で初めてお葬式に行った。私の祖母のお葬式だ。

それぞれ親族が集まり,祖母の死体を見て号泣するものもいれば,案外なんともしてないようなものもいる。しかし,冷静に見えたような人でも,口を綻ばせると目から涙が止まらないという人がいた。皆,彼女の死に対してセンチメンタルになっていたことは確かだ。

 

一方私は,それほどセンチになっていたわけではなかった。そもそも,お葬式に行った理由は,好奇心が強く働いたことが大きかった。人は死んだらどういう風になるのだろう?本当に動かないのだろうか?顔色は?そして,葬式の場ではみんなはどんな振舞をするのだろう?また次に葬式があったときに恥をかかないように,作法を学んでおこう。こういった気持ちが強く働いて葬式に行った。

 

センチにならなかった理由は,今回亡くなった祖母とはあまり関りがなかったからだと思う。だからあまり感情移入できなかったというのもある。

 

でも,グッときたときもある。それは火葬後のお骨を収集するときだ。

さっきまで肉体だったものが,完全に骨だけになっていたのを見て衝撃を受けた。かつて,私に話しかけてくれていた祖母,私がするめが好きだからと言ってするめを上げてくれた祖母,台所で料理を作っていた祖母が,ただの無残な骨になっていたのだ。

 

肉体と死体,それだけでは違いがよくわからなかったが,肉体と骨では訳が違う。

あの頃,私に優しかった祖母はもう修復不可能なのである。再現が不可能なのである。

まだ生きて入れば,声帯などを取り出したりすれば,おばあちゃんらしき存在は作れたかもしれないのに。

 

また,火葬後の臭いもかなりきつかった。まるで魚を焼いた後の臭いとそっくりだった。だから,結局人はただの動物なのだということを否が応でも感じさせられた。

 

さらにきつかったのは,その火葬場にいた,まだ生きてるおじいちゃんやお父さんやお母さん,それにお姉ちゃんやお兄ちゃんまでいつの日か,このように骨になってしまうということを想像すると,耐えられなかった。私が一番年下なので,年齢だけでいうと私が家族全員の骨を見ることになるのかもしれない。それはイヤだ。

 

そして,私自身もいずれは無残なボロボロの骨骨にされ,どこの誰とも分からぬ人間に壺に詰め込まれるのだ。

 

私の2世代あとくらいならば,私の存在は彼らの記憶の中に生き続けるだろうが,それ以降の世代はもう,誰も私のことを覚えている人などいないだろう。

 

だとすると,何のために生きるのだ?私は。そんなことを改めて考えさせられた。