昨日から、「独り言」を言うようにしている、敢えて。
「独り言をするようにしたら、自然と喋れるようになった!」という言葉があった。
それは私の脳にひどく執着にこびりついていて、他のどうでもいいような政治論評やユニークな批判は全く頭に残っていない。
私のコンプレックスの1つに、「上手く喋られない」ということがある。
もちろん今は日常会話程度のやりとりは、平然とできるようになっている。
しかし、昔、、、近い過去なら浪人時代、そう、浪人していたとき、あのシーンとした教室で、同じ浪人仲間と話すことがとても苦痛で、恥ずかしかった。
そのくせ、心の中には「自分は誰よりも優れている」などといった尊大な自尊心があったのだから、これほど滑稽なことはなかろう。
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「言葉が言葉を選んでいる」という感覚が、昨日からやっている独り言から得た発見である。
マーガレット・サッチャーが、父親から言われた言葉として感銘を受け、民衆に広く広めた言葉がある。
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
これはつまり、「思考」->「言葉」->「行動」->「習慣」->「性格」->「運命」というボトムアップ方式で思考が運命にまで影響を及ぼすことを意味している。
そのうち、「思考」->「言葉」の部分に私は疑問を唱えたい。
思考が言語を決定する? もちろん、そういう場合もありうるだろうが、
「言葉が言葉を決定する」ということもありえないだろうか?
独り言をしていて気づいたことの一つに、自分は声にして何かを語るとき、
「言葉が言葉を選んでいる」ように喋るときが多い。
つまり、頭の中であれこれと考えて、それを言葉にしてアウトプットしているというわけではなく、言葉が、それらしい言葉を選んで単につなげているというようなもの。
これでは、会話がつまらない、喋ることが退屈だと思ってしまうのも当然だろう。
そう、私は「口を動かす」ことがでぇっきらいなのだ。
だから、独り言をよくする人の気持ちが分からない。言葉とは、相手に自分の意図を伝えるためのツールであること以外に機能があるのか?
あったとしても、費用対効果が少ないと感じるのは私だけだろうか。
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話を戻そう。「言葉が言葉を選んでいる」と言った。
どういうことか?例えば、「私は~」から始まる場合と、「俺は~」から始まる場合で、その後に話す内容が随分と変わってくる。
もちろん、話す相手や自分の立場が一人称を変えるので、それに従って自然と話題が変わることもあるだろうが。
「論理」という言葉を使った時に、その後に続く内容が必ずと言っていいほど抽象的な内容になる。
もっと細かく言うと、使う助詞によって、文が成立するように言葉を選ぶ時もある。
私はこうした「話し方」を「口切り発車」と呼ぶことにする。
「口切り発車」は、自分の思考を言葉にコントロールされるばかりか、そうすることでさっきの
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
によると、自分の運命まで変えてしまう。
だから、言葉に支配されてはならない。
思考が言葉を選ばねばならない。そうしなければ、自分の軸がきっとぶれ、自分の人生までぶれまっくてしまう。
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自分は独り言をいうときは、大体お堅い口調になりがちだ。
このブログで語るときのような、文語体口調のような。
これはきっと、中学生のころから多大なる影響を私に及ぼした、赤髪ポニーテールのあの風紀委員のせいでもあるだろう。
最近、自分の「楽しい」過去が発掘され、それによって私の一貫性にも変化が訪れ、人生観や自己観まで根本的に覆されている。
中学生までの無邪気な自分は、どんな口調だったのだろうか?
いっぱい発掘していくことで、わたしがほんとうに使うべき「言葉」も見えてくるし、「思考」も変わっていく気がする。