幸せに寝られる

 私は今先ほど、きっと大きな一歩を踏み出してきた。本来は加入できないはずのサークルに、自分から申し出て加入させてもらい、始めての活動に参加してきた。

 

 今日一日、というより昨日の夜から今日の活動の直前まで、実は、「行きたくない」を連呼していた。本当に心の底から行きたくない、また社会的に孤立するだけだ、と。だから、挑戦すらしたくないと。

 

 自分で自分を慰めたあと、私はなぜか昔の友人について思いを馳せていた。小学校の頃に仲が良かった友人のことだ。今は連絡を取っていないし、なぜ連絡を取らなくなったのか分からなくなった。でも、一つの主因は、私と彼らの相性が悪くなったとか方向性が変わったというよりか、学力の差が将来歩む方向性を変えたからだということだと思う。

 

 小中学生のころ、私はよく学校を休む子どもで、たまにしか学校に現れなかった。それでも、私は9.9割の人と仲良くなれていた。それも、クラスの中心人物とも、あるいはそうでない人物とも。

 

 私は当時の友人と遊んでいたとき、彼らの顔をきちんとみていなかった気がする。何らかのゲームや作品を通して、彼らと繋がったいた気がする。たまに自分から遊ぶ内容を提案していた気もするし、遊びは進んでやっていたと思う。

 

 私はあまり人見知りしない、物おじしない人だったと思う。それは何故か。これだけは言える。「才能」だと。家庭環境、あるいは末っ子ゆえともいえるかもしれないが、それほど原初的な経験ゆえであればそれはもう固定的なもの、才能とも呼んでいい。

 

 友人が私を尊敬する理由の大体はおそらく、人に対しても物事に対しても、それらがどんなにチャレンジングなことでも、チャレンジングであればあるほど、目を輝かせる姿勢だと思う。

 

 もっと若い頃は、それがどんなにすごいことか分からなかった。楽しいからやっている。それはすごいことではない、と。

 

 でも、この半年間、腐ったように生きていたからこそわかる。瞑想を通して、私という中心に心を据えることができ、敢えて挑戦しないという選択肢を取れるようになったからこそわかる。

 

 よかれわるかれ、そうした生来の行動力は、0から1を生み出せる能力は天賦の才能とも言って良い、

 

 天才と馬鹿は紙一重だという。今日はそれをよく痛感した。今日のこの行為は、正直、馬鹿に見える。その選択が自分に利益をもたらすかどうか、正解に変えることができるかどうか確証はない。だが、チャレンジングに思えると、私はなぜか高揚するのだ。「やってやる」という感情が、熱い炎のような感情がメラメラと燃え盛るのだ。

 

 私は馬鹿だと思う。だが、その馬鹿げたことが結構重要なのだな。

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幸せ

 新しくダンスを再開したことをインスタで披露すると、かつての仲間たちから喜びのコメントをもらった。私はそれが何より嬉しかった。どういうことかよくわかってないが、とにかく嬉しかった。あと1週間は幸せになられると思う。

 

私がダンスする理由も、し続ける理由もこれでできた。彼らと私を繋ぐものが再びできた。そういうことなのだ。(余談だが、新卒の同期は転職後も尊い繋がりになるというが、こういう感じなのかもしれない。と思うと、入社後の仲間は大切にしたいなぁ)