合宿免許

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合宿免許が終わりましたよーつってね。約2週間も,経歴も文化も価値観も違う人たちと共同生活をしてまいりましたが,無事に卒業検定までストレートで合格できました。あとは,卒業検定の学科試験だけ受けるだけです。

 

結論から言うと,「色々ありました」

というのは,自分の価値観の変化,世界観の拡大,考え方の拡大,感じ方の変化,そして「気付き」。運転免許(まだ取ってないけど)よりも大きく意義のある体験をしてきたと思ってます。数日もすれば忘れてしまいそな,いや,忘れたくはないけど,忘れないためにも,そして,自分の気が済むようにここに備忘録としてこの体験を書き残しておこうと思います。

 

初日

 あの日は,とても憂鬱な気分で合宿所に向かっていたのを覚えています。

それもそのはず,私は今までのニヒリズムを超克していわゆる陽気なニヒリズムを獲得したのはよいものの,「私のやりたいことってなんだ?何が好きなのだ?」「人は結局のところ死んでしまうし,地球もいずれなくなるし,宇宙さえも消えてしまうのだから,誰かと敢えて関わろうとする意味がなくなった。それなのに,同じ合宿生とはコミュニケーションを取ったり,卒業後も遊びに行くほど仲良くなる人もいるといううわさがあるくらい,他者との関わり合いの機会があるところに行くのか。。。。」という風に,その時に獲得していた「私の」陽気なニヒリズムに反するようなことを要求されるのではないかと憂鬱になっていた。

 

 「合宿所についても,2週間,誰とも仲良くせず,話すこともせず,一人でいることを貫こう。だって,自分は一人でいるほうが楽だから」

 そう思いながら,自動車教習が始まった。

 

 

 とは言えども,そうして固く決断したあらやしきの心は常に荒んでいて,ニヒリズムに由来する無責任が自動車運転を危険にさらしていたことは自分でもわかっていた。

 

 「今合宿免許中やけど事故起こしそう。注意力も低下してるし,人ひいてもなんでもないよなって思っちゃう」これは,車校2日目に友達におくったLINEの内容である。病んでいる。

 

 接触

 そうはいえども,他人とコミュニケーションを取らざるを得ない瞬間が訪れた。最初は,食堂のスタッフさんから食後に「ありがとう」と声をかけられたことだ。

 

 私は,人との接触を断とうとしていたので,その「ありがとう」さえ何の意味もないものだと初めは否定していた。「世界は虚無である。だから,そのコミュニケーション自体に意味はない。だが・・・・」

 「だが,『ありがとう』と言われて,嬉しくなかったことはなかった。」

 むしろ,荒んでいた心が少しだけ癒えたような気がしたのである。

 

 次に人と接触したのは,無線運転のときだった。無線運転は3人を1人の教習官が教えるという形だったので,教習後に一緒に参加した一人から「もっとスピード出したかったですよねw」と話しかけられたときだった。私はそうですね,と愛想笑いをして足早にその場を立ち去った。しかしその時も,食堂のスタッフに「ありがとう」と言われたときと同じような感情,感覚が私に芽生えていた。

 

寮内の金髪クソガキ野郎

 私と同じ日に合宿所に入ったやつのことだ。そいつは,私より背が低いクソガキで,とにかくやかましいクソガキだった。いや,まああいつが俺より年下かどうかは知らないんだけど,とにかく言動がクソガキだった。

 

 マジでクソガキだった。寮の消灯後,彼はうっすい寮の壁を考慮することなしに,彼の友達の部屋のドアをガンガンガンガン!とノック代わりに揺らして音を立てまくっていた。これがもう,本当にうるさかった何故ならそいつの友達は私の部屋の隣にいたから,その音は隣の部屋のわたしにもほど直に伝わってきたからだ。

 今思い出すだけでも本当にむかつくあのクソガキ。耐えかねた私は,クソガキのその迷惑行為をやめさせるためにはどうすればいいかを考えた。

 

 高校生の頃のわたしならば,直接そいつに文句を言っていたところだろうが,「大人」になった私は一味違かった。「もし,うるさいと感じている人が寮の中で俺だけだったら。。。。?だとしたら,文句を言ったとしても俺がやばいやつみたいになるな・・。よし,寮内の人にさりげなく聞いてみよう!」ということで,教習で一緒になったタイミングを見計らって,寮内の人にあの音ってうるさいっすよね~と聞いてみた。そしたら,案の定,彼らもうるさいと思っていたらしいので,私は金髪クソガキ野郎に注意を促すように決めた。

 

 いやしかし,しかしだ。そんなくそ迷惑な行為,他者の視点から考えればすぐに迷惑な行為だとわかるようなことをわざわざしているやつに注意して改善するだろうか?ましてや,外部のわたしのような人から注意されて,逆に逆切れしないだろうか?もしかしたら,報復としてお金を盗まれたり,色々嫌がらせを受けるのではないだろうか?

 色々考えた結果,私は彼の友人に,クソガキのくそ行為をやめさせるようにちゅういしてもらえないかと頼んだ。そうすると,30分の1くらいにそのドアノブガタガタくそ迷惑行為は収まった。

 

 むかつくのでもう一つ書いておく。奴は歌を歌うのが大好きらしい。風呂場で歌うのならまだしも,壁が薄い寮の中で大声であいつ,ドラゲナイなどを歌いやがる。本当にうるさい,うるさすぎてとうとう私が自ら注意してやってしまった。「きびしーなー」と言っていたが,はぁ?〇すぞクソガキが!と内心思って私はすやすや寝た。

 

 卒検前も,クソガキは消灯後に甲高い笑い声で私に嫌がらせをした。無言で注意をしたら,クソガキの友達のおかげもあって,彼らは眠りについた。

 イライラしたのでタイピングが止まらなかったが,ざっとこんなものだろう。

 

 

クソガキだったけど。

 金髪の笑い声は,寮に良く響いていたと思う。「はっはっは」×2が笑うときのテンプレだったようだ。何が面白くてそんなに笑っているのかわからないが。

 

 うらやましかった。クソガキは,周りを気にせず,自分がやりたいように生きていた。自分が楽しいと思えるような行動ばかりとっていた。

 

 クソガキは大変純粋だった。仮免で落ちたときはキレながらも,少し泣きそうな声でママに言い訳の電話をしていた。私はそれを聞いていて,ざま見ろ,と思う反面,少しかわいらしいなと思ってしまった。

 

 

純粋ということの尊さ

 いわゆるやりらふぃ系が合宿には多かった。(広義のやりらふぃ)

 私の過去の経験では,そういうやつらは皆「悪」で,殺してもいいやつらで,社会に何の価値ももたらさない,カスばっかりだと思ってた。

 

 でも,合宿に集まっていた奴らは違った。私が一人でお風呂に入っていた時,やりらふぃ達は集団で浴場に入ってきた。その結果,私は湯舟につかれそうにない(というのは,体もあんまり洗ってないやつが中にいたから,単純に汚そうだなと思ったから)と思って,シャワーを浴びて帰ろうとしたとき,「すんません,大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。なんと・・・・!人を気遣う能力が,心づかいがあるだと!?

 

 それ以外にも,私とその他やりらふぃが浴室に居合わせて,彼らが騒いだというので彼らのボス(?)が私にお詫びとしてジュース大110円をくれたという経験があった。

 

 また,別の体験では,いれずみを入れていたお兄ちゃんが私に「スタッフさんに言わんとってくれますか?」と,泣きそうな目で私に懇願してきたことがあった。それは,私が冷徹な人やと思ったから,予防としてそのようなことをしたのかもしれないが,私はそうとは思わない。なぜなら,彼らはただ純粋なだけだと知っているからだ。

 

 初対面のはずなのに。

 彼らは(クソガキも含め),初対面であるのにもかかわらずお互いに打ち解けるスピードが速い。それは私にも理由が分かる。彼らには敵意がない。

 

 敵意がない。大事なことなので2回言った。

 

 私は,今まで敵意を向けられたことが2回ほどあった気がする。どちらも,嫉妬に近い女々しい敵意だったように思う。しかし,今回は,一人でいた私に対して,また,クソガキですら,私に敵意を向けたことはなかった。むしろ,敵意を向けていたのは私の方だった。

 

 敵意の中にも,純粋なものといやらしいものの2種類があると今回の合宿で思った。やりらふぃ系の中に,送迎バスの運転手がしつこいからすぐにぶちぎれた人がいた。私はそれを見て,いやしいなあ頭悪いなあと一瞬思ったが,とても素直で当然の反応だなとも思った。

 私のように良い子ちゃんぶる人は,いったん運転手の言い分を聞いて,そして後でツイッターで愚痴るというような方法を採るだろうが,そのお兄ちゃんは即座にぶちぎれた。

 

 それが良いか悪いか,正しいか同課は置いといて,私はその光景にひどく感動した。

というか,印象に残っている。

 

 他に,クソガキが送迎バスで帰る友達を見送っているとき,私の敵意の視線を向けられた後でも「ばいばーい!」と元気に友達を送っていたという経験がある。

 

 マジで?俺に睨まれた後にそんな無邪気な声出せるのか?

 

 クソガキのみならず,彼らには「敵意」がデフォルトで備わっているようには感じられなかった。純粋さと言えば,彼らのことをいうのかもしれない。それに比べて私は,外見だけで彼らが悪い人だと思い込み,彼らと関わろうとしなかった。そうして,壁を作っていたのにも関わらず,彼らは歩み寄ってきてくれた。

 これは,私が男だからだろうか?いや,そんなことはどうでもよくて,ただ私は嬉しかった。化粧をするような女男でも,やりらふぃ系からはかけはなれているような見た目をしている私でも,敵意をもたずに,排斥せずに,歩み寄ってきてくれたことがとてもうれしかったのだ。

憧れ

 合宿所にいた,やんちゃをしてそうなお兄ちゃん達に,そして金髪のクソガキの生きざまにあこがれた。いや,「憧れていた」のかもしれない。

 

 私の感じていた,筆舌に尽くしがたい抑鬱感の正体は,彼らのように自由気儘に自身の思いを発露させられなかったことからくるものなのだと私は思った。

 陽気なニヒリズムになり,世界が虚無であることを確かめるために友人に道徳的でなかった私の行動を暴露しても,そこに満足感は全くなかった。

 陽気なニヒリズムによって,マイナスを減らすことはできても,プラスを生み出すことは難しかった。

 

 合宿所に来る前に,「なぜ人は,ツイートをしたりストーリーを上げるのか。それはただの自己顕示欲の産物であり,意味がないことだ。しかしなぜ・・・」というように,自己顕示の意味について考え,答えが出ないことに悩んでいた。

 そうして,自己顕示の機会をなくした私が病んでいたということ自体が,自己顕示の意味なのだと,今では思う。

 

 「あんな風に,その瞬間に感じたことを素直に表現できるのは気持ちよさそうだなあ」そう思った。

 

うっすい壁越しの共同生活をして感じたこと

 寮内の壁はとても薄く作られていて,隣の部屋の人がベッドからちょっと動いた時の軋む音も聞こえてくるくらい,「プライベート」という概念がほとんどない空間だった。

 

 私は最初,本当にその状況に耐えられなかった。まともにお菓子も音を出して食べられない,音楽もイヤホンをつけないとダメ。化粧をするときも,あんまり音を立ててはならない。 静かさを誰よりも尊ぶ私にとって,常に人が周囲に存在することを意識させられ,そして行動を制限させられることにストレスを感じていた(実際,ストレス由来の口唇ヘルペスができた)

 

 しかし,それはある意味で心地よかった。今,合宿が終わって自宅に帰ってきてより痛感するが,静かな自宅よりも,陽気な笑い声や歌がどこからか聞こえてくるあの空間は,私に安心感やわくわく感を与えてくれていた。

 合宿生活が1週間たち,生活にも慣れたころに「こんなのも悪くないな」と思ったのは決まって,寮内に誰かがいるときだった。

 

 もちろん,誰かが近くにいることで,あるいは,人と関わることで面倒くさいことが起きる可能性は大いにある。それでも,人と関わることでしか得られないものがあるし,何より私,あらやしき自身が特に人との関わりを求め,それがエネルギー源になっていることに気付かされた。

 私はとても競争意識が強い。それは,他人を打ち負かそうとする意識もあるが,他者との関りを作りたいからこそ,そうして人と競争するのかもしれない。

 

多様性

 多様性の大切さが叫ばれている昨今,私ももれなく多様性は大切だと考えている一人だった。何故なら,多様性という,自分とは異質なものにこそ輝かしい未来のヒントが詰まっていると思っているから,そして,社会のマジョリティからすれば私は恐らくマイノリティ,すなわち「異質なもの」としてみなされると思い,そうした自分自身を肯定したいからだと思う。

 

 今回の合宿で,私は多様性がなんたるか,そして多様性を受け入れることには苦痛が伴い,勇気が必要であることを学んだ。今まで私は,私という存在や社会的な正義を肯定するという偏った側面からでしか多様性の存在や多様性について認識できていなかった。すなわち,ポジショントーク的な意味合いが強かったと思う。

 

 私は今回の合宿で,数々の「異質」に直面した。それは金髪のクソガキのみならず,体にいれずみを入れたお兄ちゃん達,風呂場で気持ちよさそうに一緒に歌うやつら,周りを気にせずにオープンに話す彼らの振る舞いなど,今までのわたし,いや,最近のわたしにとっては「異質」な事象だった。

 

 異質というのは,不快なものだ。それまでの自分の生き方や感覚にそぐわないのだから,ある程度の居心地の悪さを感じるのは当然だろう。私は,それらの「異質」には関わらないようにしていた。それらは,悪だと思っていたからだ。いわゆる,J.S.ミルの愚行権ではないが,他人に悪影響を及ぼすような行為は控えねばならないと思っていたからだ。

 

 「私」の立場からすれば,大声で騒ぐ彼らの行動は「不快」なものだった。当初は,そうした行動に嫌気がさして,(特に金髪のクソガキ)やめさせたり,騒音がこちらに届かないように工夫したこともある。

 

 しかし,しかしだ。仮に私が彼らの行動を制限すると,彼らは彼らが重視している開放感や友人とのつながりが薄くなってしまう可能性がある。そういう意味では,私の「咎める」という行為も愚行権に反するのだ。

 

 何もしないで静かにしていることは,きっと愚行権に違反しないという意味では最高の行動だろう。しかし,何もしないでいることや静かな空間に居続けるということで得られる快感と,何かをする(この場合だと,他者とつながりを得たり,共有感覚を得ること)ことで得られる快感は,質の点で大きく異なる。家に帰ってきたとき,静かすぎて私は少し戸惑った。寮にいるときはずっと静かなあの我が家に帰りたいと思っていたのに,実際に帰ってみると,寮にいたときの微弱な,そして不思議な高揚感,幸福感は得られなかった。

 

 どうやら私は,静かな空間が好きなのにもかかわらず,人との交流によって生まれる産物が好きという矛盾した性格を持っている。

 

 「まあ,なんて生きづらい性格をしているんだ」自宅に戻って,そう思った。

 

多様性の話から少し逸れた気がするので,改める。

 

 金髪野郎とよく絡んでいる,テニサー所属風の茶髪の人とトイレで相席したとき,彼は私に「路上帰りですか?」と笑顔で聞いてきた。私は彼の顔もまともに見ずに,そっけなく返事をした。重要なのは,「路上帰りですか?」と彼が尋ねる直前,彼はすぅっと深呼吸をしたのだ。私はそれは,「異質」である私に対して話しかけることに少なからず恐怖を覚えているが,気まずい雰囲気に耐えることの方が不快であるため,恐怖を深呼吸によって丸め込めた,と捉えた。

 

 私にはできない。私は恐怖を感じるときは,恐怖を感じる対象が私の中に存在しないものだと思い込んできた。

 

 極端な話かもしれないが,自分の顔が醜くて恐怖だったときは,メガネを外したり目を細めたりすることで,ぼやけた状態で自分の顔を見るのが常だった。先ほどの茶髪くんとトイレで相席するときも,私は「私」の感覚を自分の中で見ないようにしていた。

 いわゆる,サイコパスとなることでその場をやりすごそうとしたのだ。

 

 DIOの最高にハイな名言8選(第3部より) | JOJO The World

 

私がジョジョのラスボスを好きになる理由は,きっとこの体験に見られるように,私は「恐怖」を存在しないものとすることでやり過ごそうとするラスボスと同じような感覚で生きてきたからだと思う。DIOは「世界の頂点に立てる最強の力を手にすることで」,吉良吉影は「自分の”平和”を脅かす承太郎を消すことで」,ディアボロは「”絶頂”を脅かす自分の過去,すなわちトリッシュを消すことで」,プッチ神父は「”覚悟”ができない世界のシステムをいったん消して,作り替えることで」,自分の恐怖をなくそうと試みた。

 

ジョジョの主人公サイドはそれらに対して,恐怖を「わがもの」としてきた。

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茶髪の兄ちゃんの深呼吸同様,ジョジョの主人公サイドの人たちは敵サイド,そして敵サイドに対して抱く自分の恐怖を見つめ,わがものとすることで,不屈の安定した黄金の精神を築き上げてきた。

 

  

 多様性とは,「異質」に直面することである。それは「異質」である限り,不快感や違和感を感じざるを得ない。しかし,かつて多くの人たちに「異質」であったものが,(自由,科学)その後には正しいものとして受け入れられてきたように,「異質」は私たち人間がより良く生きるためのヒントにもなりうる。そうは言えども,やはり「異質」とは受け入れがたいものである。それを,今回の合宿では痛感した。しかし,そうした「異質」を存在しないもの,価値のないものとして一蹴するのではなく,きちんとそれを見つめ続けることが大切なのだ。その時に生じる「恐怖」をわがものとすること,自分の感覚に正直になり,そして,それを発露させること。生物として非常に素直な反応を出していくこと。不要な理性を取り払うこと。多様性とは,そうした逆説的な行為が必要になるのだと,今回の合宿で感じた。

 

まとめ

 好きなことをして生きていく!

 

P.S.

 合宿中だけで3作品も漫画を読んだ。

いちご100%・ハンターハンターBLEACH・(スラムダンク