「笑いには犠牲が伴う。」【こいつには絶対にかなわんと思った話】

 

 こいつには絶対にかなわないな、と思った友人があなたにはいますか?

 

 

私にとって、そういう友人は何人かいるのですが、特に強く思うのは高校以来の友人Nくんです。

 

 

Nくんは私と同じ高校出身で、2年生と3年生のときに同じクラスになりました。

 

 

そして偶然、住んでいるところが同じところだったとこともあったせいか、私たちはお互いによく絡むようになりました。

 

 

彼は本当に面白くて、個性的です。それも、本当に唯一無二と言ってくらいに。

 

 

彼の笑いは、何というか、言語で表せないところに本質があると思うのです。

 

 

話の内容それ自体が面白いということも勿論ありますが、面白さが感じられる理由はたぶん、彼の表情や、身振りや手ぶりや、独特な間の取り方。

 

 

到底、私にはまねが出来ません。その時々の彼のしぐさ(たとえば、何か考えているときの、彫刻の『考える人』のような手のポーズや、感情を伝えるときに胸に手を当てたり)は、マネすることはできるのですが、彼の面白さを再現できるかというと全くそんなことはありえません。

 

 

 

 

また、私が一番不得手とするジェスチャーも、彼の得意分野です。

これまた言語化が難しいのですが、彼がよくやる仕草は手をピンと伸ばして、正面の何かを左右にもっていくという仕草。

「A->B」を表したいときによく使っているのかもしれません。

 

 

 

自分にとって、本当にかなわないなぁと思う彼の一面は、やはり表情と声を狙ってダスことにあるようです。

 

 

今まで述べてきた仕草やジェスチャーは、もしかしたら訓練をすればマネできるかもしれないし、彼を超えることだってできるかもしれない。

 

 

だが、それは表面的なものにすぎないのです。

彼が笑いを人一倍とれる本当の理由は、それらの「作品」を「聞き手がもっとも面白いと思えるようなタイミングで出せる」ことにあります。

 

 

「こういうことを、こういうときにしたらみんな笑ってくれるだろうなぁ」と推測するためには、その場にいる空気感、表情や態度から読み取れる心情を察する、いわば「観察力」が必要です。

 

 

 

彼は、自分で自分のことを「観察力がある人間だ」と言います。

 

 

それもきちんと根拠があるのです。例えば、私の姉は子供のころ子役じみたことをしていたのですが、Nくんはその頃の姉の写真をみるやいなや、「この子、子役やってそー」とズバリ当てたのです。

 

 

メディアに出演するくらい大きなアーティストを見たときに、彼らのパフォーマンス(ダンスや歌や表現)を見ただけで、この人は惹かれる、この人は惹かれないというような、野生の勘のような優れた洞察力を発揮します。驚くことに、(世間の評価が絶対的だとは言いませんが)Nくんが評価する通りに世間から同様の評価がメンバーになされていました。

 

 

彼は、「ヒトを惹きつけられる能力と、その観察眼」については、天才と言えるでしょう。

 

 

でも、彼のそうした天賦の才能は、きっと彼の過去によって説明されます。

 

 

 

Nくんは、小中高ともに、よく言えばいじられキャラ、悪く言えばいじめられっ子でした。

 

彼は見た目がなんとも面白いというか、まぁ私自身は笑いをとるのに完ぺきなフォルムだと思うのです。

 

でも、それが他の奴らにとっては、いじるのに好都合だと見えることも多々あったのでしょう。

 

これはNくんから聞いた話ですが、彼のいた中学校は地元でも評判の悪いヤンキー中学校でした。

 

成人式を派手車や振袖でにぎやかに盛り上げるのは大抵、その中学校出身の人たちです。

 

当時は、まぁ幼き中学生ということもあって、ぱっとしない生徒はヤンキー中学生の格好の標的になっていたそうです。

 

 

Nくんと、N君の友達もその中の一人だったそうですが、その友達はNくんと違って特に面白いことをできるわけではないので、ただ単にいじめられていたそうです。

 

 

一方、Nくんは違いました。彼は、いじめっこから「いじり」を受けたとき、

彼なりの方法でそれを回避したのです。

 

それが、「お笑い」です。

 

たとえヤンキーからされることが、いじめの発端のような行動でも、

Nくんはそれを面白おかしく返すことで、ヤンキーから笑いをとり、一目置かれる存在になったそうです。

 

 

もちろん、Nくんはそれを楽しんでやっていたわけではないと、後に私に語ってくれました。

 

 

なんとかして、ヤンキーから標的にされることから逃れようとした結果、そうした自分が生まれたのだと語ります。

 

 

 彼は自分のことを「道化」と呼んでいた時期がありました。太宰治人間失格に登場する主人公にも強く共感していた時もありました。

 

 

Nくんは、笑いを取る達人ですが、その裏には決して楽しい過去があったわけではないのです。

 

 

 

 

話は少し変わりますが、私自身もここ最近「笑い」に敏感になっている身でして、

身近なNくんに笑いの極意を教えてほしいと頼み込んだことがあります。

 

 

 

そのとき彼が言った言葉で、今でも印象的だった詞があります。それは、

 

 

「笑いには、犠牲が伴う。」

 

 

 

当時、私にとって彼の笑いを取るある意味滑稽な行動は、彼の生理的な反応(たとえば、恥ずかしくなったときに咄嗟に顔を手で覆ってしまうような仕草)にすぎないと思っていたのですから、

この言葉には衝撃を受けました。

 

 

 

彼は、「どうすれば笑いを取れるか」について熟考して行動していたのです。

 

 

 

もちろん彼の行動が全て計算尽くしとは思いませんが、ほとんどは彼の熟考のすえに編み出された努力の結晶であるのです。

 

 

 

これは私の話になりますが、私自身、周りからユニークでギャグ線が高いと言われることがよくありました。

しかしそれは、決して相手を笑わそうとしてした行動ではありませんでした。

 

 

なので、彼も私と同様に、笑いとは天から降ってくるものであるという認識でしたが、実際は違いました。

 

 

 

「笑いには、犠牲が伴う。」

 

 

 

これは、ヒトを心から笑わせるためには自分が何かしらの精神的・肉体的苦痛を感じる必要があるということです。

 

 

しかし、これは難しいことのように思えませんか?

人間には誰しもプライドがあります。できることなら、誰からも賞賛を浴びて、尊敬を受け、存在を肯定してくれたいと思っているはずですし、進んで泥を浴びるようなことはしたくないと思います。

 

 

しかし、「笑い」を取るためには「犠牲」が必要なのです。

 

 

「犠牲」とは、例えば何かの真似事を全力でやったり、相手からの無茶ぶりにも精いっぱい対応したり、まあ変顔したり。

 もっと言うなら、来るべき「笑いの噴火」を起こすために、それなりのトークを続けたり、瞬間的な犠牲以外に、持続的な犠牲もときには必要ですし、相応に労力が必要です。

 

 

 

それでも、Nくんは、子供のころから、いじめられないようにするために、自分が世界で生き残るために必死で「笑い」と取ったのです。

 

 

 

私はNくんには、かないません。

 

 

彼に私が勝っているところと言えば、数学的思考能力であったり、受験勉強でより高得点を取りやすいところだったり、身長くらいです。

 

 

それ以外の点、「笑いを取る能力」すなわち「表情・しぐさ・ジェスチャー・声の抑揚・観察眼・体力・忍耐力」は、今のところ完敗です。(笑)

 

 

 

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実は来年度より、私とNくんは離れ離れになってしまうのですが、それまでの1年間、私は彼の笑いのスキルをコピーしようと奮闘しました。

 

 

先述した通り、ある程度コピーすることはできたこともあります。

そのおかげで、確実に私の「観察眼」は養われたし、笑いについての考え方も良い方向にブラッシュアップされました。

 

 

でも、私は最近思うのです。

完全にコピーすることなんて、できっこない、と。

 

 

 

私は、私自身が試行錯誤を繰り返して、その都度周りからフィードバックを受けて、それを基に次はどうすれば笑ってくれるかを必死に考えて、勇気をもってそれを行動に移す。

 

 

これを地道に続けることでしか、Nくんには勝てないと思うのです。

 

 

 

このやり方が本当に、正しいかどうかは分かりません。

 

 

でも、

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P.S.

 

 

 今日なぜこんなブログを書こうと思ったかと言いますと、

上の階の住人から聞こえた笑い声が、Nくんそっくりだったから彼を思い出して、彼に電話をかけたのです。

 

そうすると、彼は私と行動を共にしてたころとはうってかわって、新しいバイトを始めたり、新たな社交能力を身につけたり、そしてより一層「笑い」について真剣な態度をもっていることが電話越しに伝わってきました。

 

私が転居して以来、なんとなく彼のそうしたパッションを忘れかけていたので、

このことは忘れてはいけないと思って、記事に残しました。

 

 

これが、顔も見知らぬだれかに、プラスの影響を与えてくれればなと思います。

 

では、また。