「私」という存在

大学の講義で,JJギブソンアフォーダンスの概念やアクターネットワーク理論を学んだことも影響したのか,今日は自分という存在がまるで世界という波の連続したものの一部であり,悪い言い方をすれば手足がぶちぶちと離れていくような,そんな感覚に陥った。

 

私という存在がどこにあるのか,あるいは本当に在るのかあいまいになっていた。

 

私は何をしたいのだろう,どのような欲求を持っていて,どのような恐怖感情を抱くのか。よくわからなくなった私は,ふと目をつむってみた。

 

目をつむり,自分の腕を目の前で動かすとかすかにそれが動いているように見える。陰を微妙に認識しているのだろうか。そんな風に遊んでいると,なんだか瞑想をしたくなったのであぐらをかいて瞑想をしてみる。

 

きちんと手も組み,呼吸を整えた。最初の数十秒こそ,ネットでも言われているような呼吸に注目するというやり方で意識に注意した。しかし,やはり自分は上手くいかない。

 

そこで,音に意識を向けた。それまでは知覚しなかった,いや注意を向けてこなかった音に気付く。マンションの近くを通り過ぎる車両の音はいわんや,遠くのそれらの音までも聞こえる。また,同じマンションに住むものの生活音だろうか,物音が近いような遠いような,そんな場所から聞こえていることに気付く。

 

私はその瞬間,次のような単語がひらめいた。

 

「相対的」

 

この言葉が意識上に現れた瞬間,私のばらばらになっていた手足は見事にくっつき,「私」という存在が確からしいことを感じた。

 

私の意識はあくまでも相対的なものにすぎないという確信を抱いた。いずれ命が途絶え,火に燃やされ灰となり再び大地に帰るであろう私はたしかにこの世界の流れの一部である。しかし,だからといって今のわたしが水のようなとめどない連続体「でしかないということはない」

 

相対的に私という存在は存在している。

 

気持ちよくなった私は,目をつむりながら立ち,自分の家の中を歩き回った。

自分の家の中でも,感じられるものは少しずつ異なることに気付く。

トイレの水を流す音,風呂の換気扇の音,冷蔵庫の音,

音だけでなく,肌の感覚も違うことに気付く。冷房が良く聞いた部屋からそうでない部屋に移動すると,私の全身がその温度を感知したことに気付く。より一層,私の意識は私の身体という,この世界の座標のある位置に存在するセンサーに依存すること,および,私という存在が確からしいことも改めて気づく。

 

歩いていても瞑想はできるんだ