鞘師里保と、私

 

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鞘師がいたから、今の自分がいる

 私は今、モーニング娘。の「愛の軍団」の動画を見ている。

 

思えば、この動画に、鞘師里保という存在に去年の8月に出会わなければ、今の私は存在していなかったかもしれない。

 

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これを初めて見たとき、鞘師里保のカリスマ性にまず惹かれた。

 

圧倒的センター感、集団に紛れることが決してない光輝く素質。

 

彼女のパフォーマンスは、私をしてモーニング娘。の動画を何度も何度も見させた。

 

モーニング娘。関連の動画をあさっていくうちに

彼女という人間が、私と同い年だということを知って戦慄が体に走った。

 

「私は何をしているのだ?同い年の彼女は、幼少期から自分のやりたいことや目標を軸に、行動し、あこがれのモーニング娘。に入るという努力の結晶を見事に作り出した。それなのに、私は、目標に向かって本当に『努力』しているのだろうか?」

 

自分の部屋にホワイトボードを飾っているが、そこに大きな字で鞘師里保と書いたのをよく覚えている。私は当時、自分のやる気が低下したり、目標を見失ったりしないように、彼女という存在を、理想を常に視界に入るようにした。

 

彼女という存在は、今の私という花を咲かせる種だった。

 

当時のサークル活動も、目標も、彼女のようになりたいから頑張っていた。

 

復活した鞘師里保

 

 ご存知の通り、先日鞘師里保は忽然とSNS「Instagram」にて復活した。

 

彼女のフォロワーは瞬く間に10数万に達して、現役メンバーのフォロワー数をたった数日間で越してしまった。流石、伝説と言われるだけのことはある。

 

当然、そのとき私は狂ったように彼女の復活を喜んだ。

 

「死んだと思っていた(Babymetalの活動は知っていたが、なんとなく自分の中では彼女は死んだという扱いになっていた)のに、彼女はモーニング娘。時代とは全く変わらない姿で公に姿を現した!」

 

彼女は今のところ、主にインスタliveをしながら数回の投稿をしている。その中には、アメリカ留学中のダンス姿を見せる動画もある。

 

当時のダンスと比べると、明らかにパフォーマンス力はアップしている。

 

「やっぱり、鞘師はすごい。」

 

 

私はそう思っていた。やっぱり、鞘師は私が最も尊敬していた存在であった。

 

でも、心の底からそうは思えない自分がいることにだんだんと気付いた。

 

ロマンとしての鞘師を求めていた私

 単刀直入に言う。私は、私の目的のために鞘師という存在を利用していた節がある。

 

つまり、自分自身の目標を達成するための理想的なロールモデルとして、鞘師を採用していた。

 

というのも、鞘師が復活してから、私は鞘師の活動にいささか疑問を持っていた。

「インスタで復活するのなら、何かどこかしらの巨大な組織に所属して、何かしらの大きな舞台でパフォーマンスをしていてほしい」

こういう願いが私の中には確かに存在した。

 

だから、鞘師が、まるで他の雑魚系インスタグラマーのようにインスタliveを無限にやるようなことはしてほしくなかったのだ。

 

 

インスタliveをする鞘師を私は求めていたのではない。

 

伝説としての鞘師を求めていた。そして、私はその伝説をロールモデルとしていたし、そうしようとしていた。

 

ただの一般人のような存在になり下がった鞘師は、私の求めていた鞘師ではない。

もっと、モーニング娘。に所属していたころのように、他のメンバ―と群れることなく、孤高な存在として光り輝いていてほしい。

 

これは、分かっている、私のわがままだ。

押し付けだ。自分のために他人にこうあってほしいという願いほど傲慢な願いはない。

 

しかし、何が正解なのだ。

 

終わりは存在するのか

思えば、私は人生の一場面一場面で、ロールモデルを設定し、それになれるように努力してきたきらいがある。努力してきた。これは間違いない。

 

私は一場面一場面で、自分の努力を忘れるきらいがある。しかし、自分のやってきたことは確かに努力だし、それは確かに結実している。誇れるべき自分の過去や、正確だと思う。

 

しかし

 

「終わりは存在するのだろうか」

 

京都大学の英語の過去問で、「Xは、常に将来に備えて準備するという形で現在のを消費している」というような趣旨の英文を見た。

 

正に、私だ。私は、何かに没入するということはない。いや、正確に言えば、何かを、その瞬間という時間を楽しむということはある。

 

しかし、いずれ「その時間を死ぬまで続けていいか?」という疑問が浮かび、もっともっと本質的な人間としての目標を求めるようになる。

 

 

頭では分かっている。人間が、最高の幸福を感じるためには、世界の虚無など悟る必要がないのだと。

 

 

世界は、刹那的な幸福を基に機能している。虚無を理解してしまえば、世界中で世の中の秩序をぶっ壊す暴動が起きてしまい、秩序など亡くなる。

 

世界は、虚無を仮定しないからこそ、つまり、希望があるから機能しているのだ。

 

究極的な目標など存在しないのでは????

 

今、この疑問が初めて自分の中に創出された。自分でも驚いている。

 

そうか、目標を達成するというのは、いや、違うな、今までの思考のフレームワーク自体が間違っていたのかもしれない。

 

 

「終わりは存在するのか?」

 

「存在する。しかし、それは今までの思考の枠組みのような『A->B』という図式に当てまらない」

 

 

幸福が「A->B」という図式を取るのならば、永遠にBが発生することだろう。

 

違う。幸福とは、行為の目的的価値だ。

 

(その価値は、本当に目的か?)

 

そうか。いや、分かった。

 

この世界の真理を理解した。

 

究極的な目標など、存在しない!

 

この世界の論理で、いや、人間という箱を与えられた今、幸福を定義できるとすれば、

「~~しなければならない」という衝動・欲求を満たすことが最上の喜びだ。