自分を知るということは、世界を知るということ

 

 

この記事を書き始める数十分前、ある恐ろしいことに気が付いてしまった。

 

 

(この記事は私の備忘録。この事実と、この事実を発見した衝撃の感覚をそのまま残すために、あえて比喩は使わない。もっとも直接的な形で残したほうが良いだろう。)

 

 

それは、なんとなく高校のLINEグループのアルバムにまとめられていた写真を眺めていた時のこと。

 

 

体育祭の写真、弁論大会の写真、クラスマッチの写真、文化祭の写真。

みんな、それぞれが自分の能力を発揮しながら自分の個性を思う存分に出していた。

 

 

もちろん、その中に私が映っている写真もあった。私がその写真を見た瞬間に衝撃が走った。

 

 

「高校の頃の私、私が想像する以上にオワッタ容姿をしている。」

 

 

確かに、今の容姿と比べると高校の頃の私は眉もほとんど整えていないし、髪型も最適なツーブロックにしていない。

 

 

しかし、肝心なのはそこではなかった。髪型や眉毛などの比較的いじりやすいパーツではなく、目元、口元、表情、目線。そのすべてが気持ち悪かった。

 

 

 

とんでもないことに、私は高校のころは自分の容姿が優れていたから多少はモテていたと勘違いしていたのだ。

 

 

もちろん、勘違いできるくらいの証拠は記憶にある。たとえば、顔が整っているとか、目がぱっちりしているだとか、鼻筋が通っているだとか。

 

 

あるいは、モテの十分条件とも言える高身長も擁していた。勘違いするだけの材料は十分にそろっていたはず。

 

 

しかし、現実は、ありのままを映した写真は私が描いていた自己像とは全くかけ離れていたのだ。とんでもなくショッキングである。

 

 

苦しいが、私の自己像とありのままを映した私の写真を比較して言語化しておく。

 

 

自己像:細身ではあるが、姿勢がよくてスタイルの良い高身長。肌の血色はよく、肌の質感もよい(当時は恐らくそうと思わなかったが、今振り返るとこのように理想化された自己像だった)。目鼻立ちがくっきりしている。口は基本的に閉じている。凛々しい。無口でありクール。笑うが微笑みをこぼすのみ。ミステリアス。

 

現実:高身長はただの数字。尾てい骨から脊髄あたりまでの姿勢は最悪。最も衝撃的なのは首、首が前に出ていて不格好(最近コピユニをしていて初めて気づいた。しかし語ることは沢山ある後程詳述) 目は思ったより開いていない。元気がない。四肢を活発に動かしていない。弁論大会の時の演説中、手は動いていただろうがおそらく上腕は動かないアンガールズのような気持ち悪い動きをしていた。 笑顔が不自然。

 

 

自分の思い描いていた自己像とは異なっていたということも大変恐ろしい事実だが、それ以上に「肥大化した自己像が作り上げられる過程や、認知」のことを考えると私は恐ろしくてたまらなくなる。

 

 

 

例えば、高校の頃は首が前に出ていたと先ほど書いた。そして、最近始めたコピユニでメンバーからそのことを指摘されてようやく気が付いたということ。しかも、気が付いてそれを直そうとするまで恐らく、自分が認識してる範囲でも2日間くらいかかった。

さらに記憶を遡ると、初めて結成したダンスチームメンバーからも同様のことを言われた気がする。

 

 

「人間は、ポジティブ・シンキングに生きている」

 

 

最近、社会心理学を勉強しているとこのような事実を知った。人は自分に都合の良い情報を認識しがちだし、またそうでない情報も都合よく解釈してしまう。

 

 

自己報告式のパーソナリティ診断テストでは、他人からの評価と自分が自分に対して行う自己評価との間に相関関係は中程度しか見られなかったという研究結果もある。

 

 

私は戦慄している。私は肥大化した自尊心を育てていた。醜い醜い(文字通り、醜い)トラだったのだ。

 

 

それも、自分だけではどうすることもできないようなところで自尊心がぶくぶくと膨れ上がっている。

 

 

社会性を身につけなければならないとは思っていたが、もはや身につけなければならないという次元の話ではなくなってきた。

 

 

 

自分が、理想とする自己像に近づくためには、他人と関わり、他人が自分にどのようなフィードバックを与えてくれるのかを精密に検査しなければならない。

 

 

 

。。。。。。

 

 

 

私は認知を知りたかった。『奔馬』において、最後の場面で勲が瞼の裏側に赫奕の太陽が昇ったその認知過程を知りたかった。

 

 

 

自らの認識と世界の関係を知りたかった。そこが最も不明な点であり、かつ人間の根本的な価値観や態度の形成に貢献していると思っていたから。

 

 

 

しかし、世界と自己の関係どころか、自分が自分にむける目と、実際の自分とも大きな懸隔があることに気づく。

 

 

「もはや、私自身の感覚・思考・思想・認識はあてにならない!!!!」

 

 

私が私だと思っているものは、嘘偽り、自分の創作物であり真実ではない。

 

「私は思考する。故にわれあり」とデカルトは言ったが、今の私はそうは言えない。

 

 

そこまで自分の存在や認識に自信が持てない。うわあぁ・・・・・・

 

 

 

結論はこうだ

 

 

 

 

「人は自分に都合のいいように世界を解釈しがちだが、とくに私自身はその傾向が顕著であること」

 

(幸福とは自分の正義を信じること。であるはずなので、上の事実が幸福とはなんら関係がないことは奇妙であるが事実であろう)

 

「自己像と実際の自分は、かけはなれている可能性がめちゃくちゃ高い。むしろ、常にそう思って生活せねばならない。つまり、たえざる努力をしなけばならないということ」

 

 

「そして、ただ一人で努力をするのではだめ。それを他者から評価されなけばならないということ」

 

 

努力・感謝・節制

 

私はきっと、「まだまだ」なんだろうな。

 

がんばろう。