「人は何のために生きるのだろう」
人間が抱く最大の疑問であり、哲学である。
この問いに対して、答えは人によって変わってくるだろう。
ある人は社会貢献のため、ある人は家族を守るため、またある人はただの暇つぶしだと。
世界は有限である。石炭や電力のみならず、それを利用する人間にもいずれ終わりは訪れる。個人単位でみれば、その終わりは「死」と呼ぶ。
今日どこかのサイトで見たことだが、人間は生きる上で「有限性を受け容れる」ということをしなければならない。あるいは、有限性を無視するということだ。
何故ならば、現代の(というより今の私の知識や思考などの)情報を考慮すると、自分の行為が最終的にどのような価値を持つか説明することは困難だから。
仮に、幽霊が存在し、魂が存在し、我々は輪廻転生を繰り返すのであれば、あるいは、解脱によってそれまでの行為が全て報われるのだとしたら、「努力」することに価値がある。
だからこそ、今まで宗教は必須だったのだ。この世に神秘や救済がないならば、いったい何のために頑張るのだ?そして法は機能しなくなり、秩序は崩壊する。
私はここ最近、かなり忙しくて自分のためにゆっくり時間を取れてなかったのもあり、再びこの「虚無」の世界に引き込まれ、懊悩していた。
本当に、自分でも感心するよ。高3で三島由紀夫に出会ってからだろうか、人間の営為の価値についてひたすら考え続けてきた。そのたびに一つの結論に達するのだが、また新たな懊悩が出現して苛まれる。まあ、これからもこういうことはあるから気楽にしたいのだが。
話は逸れたが、「人はなんのために生きるのだろう」ということだ。
答えは簡単。「希望」のために生きるのだ。学者がなにかを研究するのも、サラリーマンが朝早くから満員電車に詰められて通勤するのも、主婦/主夫が家事や子育てに勤しむのも、すべて「希望」のもとにあるのだ。
しかれども、有限なこの世界に「希望」はあるのか?科学が日常生活に浸透した現代では、神秘や魂はもはやファンタジーの中の概念だ。全てが物質的な意味に還元され、論理に支配されていく。たとえどれほど世の中が人間にとって心地のよい場所になったとしても、そこでの営為はすべて「その場限り」なのだ。法が存在するのは、その「その場限り」の幸福を邪魔しないようにするためにあり、決して尊厳とか、尊さとかそんなもんのためにあるんじゃあないのだと。そういう世界になりつつある気がする。
しかし、有限な世界にも「希望」はある。何故ならば、まだ「未開」の世界があるからだ。これは、(私が持ちうる知識と思考力をもってしての推測だが)世界全体でも「未開」は存在する。そして、私個人単位でも「未開」は存在する。
「未開」は「希望」だ。未開なのだからそれは可能性であるだろう?
数十年前までは、マクノテクノロジーフォース(AIを筆頭とした、最先端かつ影響力の大きいITテクノロジー技術)は存在しなかったし、それを基にした社会構想は寝られていなかった。また、「戦略」は「技術」から生まれる、あるいは、「技術」である。つまり、「未開」の技術は、未だにわれわれが解決できなかった問題を解決する可能性があるということだ。
私は、今まで世界はすでに寂しくつまらないものだと思っていた。だから、不老不死になったり意識をコンピュータに移すことでこの世界の神になろうとしていた。あるいは、観察していたかった。
思えばこの考え方と、「未開」を「希望」とする考え方は見た目は同じなのかもしれない。しかし、根本的に違うのは世界を「楽観視」しているということだ。
「この世界はもっと良くなって、いずれ有限性を打ち破った真の幸福が訪れるかもしれない」という非常にオプティミカルな考え方。
もしかすると、世界は有限のままでつまらないのかもしれない。
でも、世界は無限であるかもしれないという可能性も満ちている。
できることなら、自分が生きている間に有限性を打破するような出来事が起きてほしいのだけれども、でも、人類全体で可能性を模索してゴールに辿り着ければいいとも思う。
だって、今の自分があるのは、今の世代にバトンを渡しつづけた偉大なる先祖がいるからだ。彼らは彼らなりに、「真実」を探求したのだ。そしてその根本には「希望」がある。
だから、私も人類の一員として「可能性」に賭けてみようと思う。
P.S.
また多忙な生活のおかげで、虚無に陥ったりするかもしれないけど、なんか今度はそんなことおこらないきがするなぁ(笑)