K氏は投票所に行かない

【K氏は投票所に行かない】

近年、高齢者に媚びへつらう政治家、対して若者の政治離れが喫緊の問題として叫ばれている。

 

「若者は選挙に行くべきだ」「若者の投票率を上げなければならぬ」「選挙に行かないなんてキチガイだ。低学歴の土方か?」

K氏はしかし、選挙に行かない。今日は投票日である。

 

 

 

定時の7時に起床し、お気に入りのプレイリストから無作為に選ばれる曲(今日はBlood Orangeの「Benzo」)を聴きながら心地よく朝を迎える。

 

妻からの「お早う、あなた。」は毎日変わり映えのないが、しかし、小川を流れる清水のように透き通り、K氏の朝には欠かせない"一部"だ。

 

おはよう、と返すと洗面所に行き、顔と口内を軽く洗う。

 

目覚めた瞬間から既に香る朝ごはんの匂いは、ここにいる時に最も良く感じられ、K氏を完全な覚醒にみちびく。

 

K氏の朝の心地良いルーティン通りではあるのだが、この瞬間だけは恰も、フェロモンに惹かれた動物の雄がふらふらとその発生源の雌に惹かれていくように、リビングにそなえられる朝飯の贅沢へと足が向かう。(最も幸福なことの一つは、本能の赴くままに行動することであるという信念の表れであることは言うまでもない)

 


TVは必ず付ける。しかし、見るのは国営放送か、あるいは他局の報道番組のみである。

 

彼は無知を恐れ、また、世の中の何事にも関心を持たねばならないと言う信念を抱いていた。

 

幸福は平穏と刺激が混在するということを知っていたからである。

 


しかし、今日はTVをつけない。今日だけは妻との他愛もない会話を愉しむ。

 

昔、投票日にK氏がTVを付けないことを訝しむ妻はうっかり「今日はTVは見ないの?」と尋ねてしまったことがある。その発言の瞬間、彼女は「しまった」と後悔したが時は戻らない。

 

K氏は、今日は投票日だからね、と微笑んだが、彼女はその微笑みの意味と自らの行動を忘却しないように心がけていた。

 


K氏にとって政治とは最も重要視せねばならない関心事の一つである。

 

彼が毎朝を快適に過ごせるのは、彼自身がそう過ごせるように"調整"したからであり、また、政治もその"調整"の範疇にあった。

 

どの政治家が自分の幸福にとって最も貢献してくれるかを考えねばならない。嘘か真かを見抜かねばならない。

 

民衆が腐った政治家をトップに選んだせいでその国どころか、全世界を悪夢に陥れた例は記憶に新しいが、K氏は最も憎んでいたのは、悪名高い政治家ではなく、政治家を選んだ愚かな民衆であった。

 


「意識的であれ無意識的であれ、自身の選択が最も正しいと誰もが思いこんでいる。もちろん私自身もその例に漏れないことは理解している。

しかし、何を朝食に選ぶべきかは熟慮しなければならない。

 

主菜や副菜などをどのように配置すれば最も食欲をそそるか、食器の材質は木材かアルミか、適切な量はどれくらいか、また、それらを最も適切に選びうるパートナーは誰か、考えなければならない。」

 


それでもK氏は選挙へ行かない。政治と選挙は、一見、民主政治において最も関連しており、彼自身の幸福に直結するように思われる。

しかし投票日は言うまでもなく、政治の話すら友人と全くしないのだ。

 

 

投票日が近づくにつれて、街中は選挙に支配される。立て看板に貼られた候補者の顔は、K氏にとって耐えられない不快感を催させる。拡声器から響く声が聞こえると、この為だけに購入した高級耳栓を付け無音の世界に逃れる。

 


K氏は無知を恐れている。有名な哲学者の「無知の知」は余りにも有名であるが、この意味で無知を恐れ自らの無力さを痛感しているわけではない。

 

むしろ、「無知の知」とはトートロジー(同義反復)に似たもので「円は丸い」と言っているようなものだと悟っていた。無知に対する恐怖とは、あくまでも自分の揺るぎない幸福のために携帯しておかねばならない感情だということを知っていた。

 

長年続けていたコーヒーとトーストの朝食は、その組み合わせで血糖値を上げてしまい、実は健康に良くないという事実を知った瞬間の、あの絶望は未だに忘れられない。

 


「ご馳走さまでした。今日も美味しかったよ。」

そう妻に伝えると、あらいつもはそんな事言わないのに、今日は雪が降るわねきっと。と、こちらを睨むように、しかし口角は上がって笑みが溢れている彼女の表情も、私の幸福を形作っている。

 


K氏は2日前に届いたオーダーメイドのスーツを着て、カシミア素材で最高級の飽くなき肌触りを堪能する。

 

主役のタイは包容力や自信を感じさせるオレンジ色のレジメンタル柄。靴はEDWARD GREENで伝統的なデザイン

を保持しつつ最新の流行を取り入れるウィングチップ。ベルトは調整の効きやすい穴なしのものをいつも使う。

しかし、常に高品質の物に拘っているわけではなく、時にはAEON MALLで売られているチープなスーツを着用する。これもまた、幸福には平穏と刺激の両方が必要であることを知っていたことによる選択だった。

 


「じゃあ、行ってきます。」

玄関口で妻に別れを告げる。

大抵は自転車で20分で会社に行く。脳の機能が衰えないように、毎日会社へ向かう道を変えたり、嫌いな満員電車に敢えて乗るということもしていたが、今日は投票日、人との接触は避けたい。迷わず選んだのはタクシーであったが、脂の乗ったタクシーの運転手が「今日は投票日ですねぇ、こういう事を聞くのはタブー、なんでしょうけど、えぇ、私はちなみに●△さんを…」と聞いてもいない演説を始めたので、耳栓を取り出した。

 


「不安な年金制度に改革を!」「教育費は無料に!」「全世代を幸福に…」

 

K氏はしかし、このようにできもしない宣言をいけしゃあしゃあとする公約を見るのはとても愉しいということを知っている。

 

よく観察すれば、そこには人間の法則というものがよく現れる。

 


公約を見てみると、多少とも実現可能な具体的な公約を掲げているのは、与党や野党の一定を占める候補である。当選の可能性が遠のくほど、公約も空想や神秘になっていく。

 

自民党NHKをぶっ壊さないし、安倍晋三は路上カーセックスを連呼しない。

 


面白いのは、理性的でかしこい人間ほど具体的で実現可能にみえる公約にだまされるということだとK氏は知っている。

 

「明日、君に1億円あげるよ」と「明日、君に三千円あげるよ」ではどちらの方が信じやすいだろうか?どつしても小さな望みや約束だと叶えてくれそうに思えて、大きな約束や誓いだと、ダメそうに思える。

 

これは人間のどうしようもない経験から来る法則みたいなものであるが、マニフェストとはこの法則に乗っかって人を騙す。

 

 

だから、1億円の約束より3千円の約束の方が安心だと思って投票したら、その3千円すら貰えなくてバカを見るのである。

 


「公約を絶対に守って、汚職をしない政治家さんが選ばれるにはどうすればいいの?」と、子どもの頃、祖父に尋ねたことがある。

 

彼はこう答えてくれた。「そりゃあ、お前、選ぶんじゃあなくて、委ねるしかないなぁ。つまり、独裁主義の国じゃな。たとえばドミニカなんかは、汚職をすれば忽ち銃殺されてしまう。だから汚職がない。」

 

なんてむごい国だ、やりすぎだ、汚職してなかったらどうするのと再び尋ねた。「そう、だからこその民主政治なのだよ。民主政治は程々にやってくれる上に、命が奪われることは滅多にない。あったとしても、その犠牲が安定した世界に導くんじゃよ。もっとも、民主政治は消極的に選ばれた選択肢であって、もっとも損失が少ないとされる政治形態であるからね。常に理想と現実は摩擦してるのだよ。でも、それが人間なのだ。どんなに愚かで冷酷に思えても、愛すべき存在なんじゃ。こんなことを言っても子どものお前にはまだ早いね。」

 

 

語る祖父の表情は柔らかく、子どもである私の疑問にすらすらと答えてくれた。当時はほとんど理解できなかった。ドミニカには行きたくないなと思ったことは覚えている。

 


……

 


「だからね、お客さん、あんたも●△さんに投票しなよって!えぇ?あぁ、もうすぐ着きますよ、お客さん。」と窓の外を思い出に浸りながら虚ろに眺めていたK氏は、運転手の脂ぎった手で突つかれ我に返った。

 

「3xxx円ですね、お客さん。」いつもより割高な移動費だが、K氏は何となくその額より札3枚分多めに料金を払った。運転手はもちろん困惑していて、当初は受け取りを拒否したが、K氏は断固として譲らなかった。

 


……

 


「ただいまー」

…返事がない。こういう時の妻は大抵、家庭菜園の手入れをしていて庭にいるか、友人と電話をしている時である。

 

家に上がり、庭を覗くと案の定、菜園に放水をしている。こちらの存在に気づくと「あ、おかえりなさい。早かったね」と、放水の手を止める。

 


夕食は妻ではなく自分が作る。というのも、妻が作る蠱惑的な朝ごはんに対抗心を抱いているからであったが、彼女はK氏のそんな子供じみた心を愉快に見抜いていた。

 

毎回、食卓の会話は妻による、K氏の夕食の品評会から始まる。選挙のことなどK氏頭から丸きり消えていた。

 


そのまま夕食を食べ終えて、諸事を済ませる。明日の予定は綿密に書き留め、スムーズにこなせるように前日に準備するのはK氏の習慣であった。

 

全てを終わらせると、先に寝入っている妻の所へ行き、目を瞑る。

 


結局、K氏は投票所に行かなかった。