イマジナリーフレンドが4人います

 

これは泥酔の中、かろうじて書いた記事である。何のために書くのか?

私が、HKが書こうと思ったから書くのである。本来、その告白に社会的

要求が含まれるはずがない。性質としては社会性を帯びていても、やはり本来的な動機はかなり個人的なものに帰結するだろう。

 

 

飲み会に行ってきた。それも、1/62は知らない人間という何ともきみょうな飲み会だ。々大学生のモノもいれば、全く共通点を持たないものも少なくなかった。

 

 

おおざっぱに分ければ、極端な理系と極端な文系にその大群は2分される。

 

 

私は終始、退屈だった。何もしない場合に比べて、退屈だった。

 

 

そもそも、今日の飲み会に参加する前、自転車をこぎながらこう考えていた。

 

「今日は、誰の人格をコピーすればこの飲み会に適応できるだろうか?」と。

 

私の中には、社会性を持った色々なモデルが存在する。某有名Youtuberであったり、某有名巨大掲示板設立者であったり、個人的に尊敬する架空のキャラクターであったり。

 

 

社会性を要求される場面では、いつもどのモデルが最適化を事前にかんがえてイベントに参加する。

 

 

しかし、いつもとは違う思考をしてみた。「なぜ、私はこのような人間を社会性のモデルとして採用したのだろうか?」と。

 

 

 

彼らに共通する点はいくつかあった。まず、自らの思想・意見を他人からの反論・非難に臆することなく堂々と主張する点。

 

 

次に、他人の思想や態度に迎合することなく、積極的にグループの活動に参加すること。

 

 

どちらも、能動的な姿勢が備わっていることが分かった。恐らく、受動的な人間に社会性は伴わないと無意識に考えており、また、そのような人間は社会的な地位を獲得することができないとも考えているからだろう。

 

 

ところで最近、私は全体主義的な上司に精神的エネルギーを圧搾されている。

その解決策として、今まで行ってきたものは単純な”パワー”で相手を圧倒するということだ。そうすれば自ずと相手は黙ってくれるので、誰にも口出しされない快適な時間を過ごせる。

 

 

しかし、このやり方は相手に「勝利」するまで絶対に不快な気分を味わい続けねばならない地獄を作ることになるばかりか、敵or味方の基準で他人を判断する必要になる。

 

 

常に生死を問われる戦国時代のように、緊張の糸が生活のいたるところに張り巡らされるのは、自分にとって不快そのものである。

 

(それにその上司のすきるを超すには最低でも3か月はかかりそうである)

 

したがって、このような従来の思考法や人格は、私のためにならないと結論付けた。

 

「別の社会性を有したモデルを探さなければならない」

 

ENTJのような人は、他人にアレコレと口出しをして、かつ、その口出しが割と論理的であるがゆえに、その部下は自分の無能さを顕著に感じ、プライドが高いものは山月記の李徴のごとく臆病な自尊心と尊大な羞恥心を抱いて死ぬ。

 

 

(なるほど、ENTJの行動や要求に納得できて、かつ、それを自分の成長の糧にできるような性格を持つ人間をコピーすればよいのか)

 

 

しかし、中々そのような人間は見つからなかった。私の経験が乏しいせいかもしれないが、成長を基軸にしてしまうとどうしてもENTJに相反してしまう性格になってしまう。

 

 

もはや、成長などいらぬ。 しかしこんなパーソナリティを理想としたことはない。

できるだろうか・・・・。

 

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しかしできてしまった。やはりワテにできないことはないのだ。

 

 

ということで、話に戻る。

 

 

多重人格ではないが、異なる人格をモデルとして用意している私にとって、

 

 

果たして本当の人格、コアとなるような人格はあるのだろうか?

 

 

飲み会前にずっとこんなことを考えていた。

 

 

そういえば、学校にあまり行ってなかった幼少期の頃、イマジナリーフレンドが僕には確かにそばいてくれた。

 

 

世界の事象に疑問を抱いているときに、よく彼は登場してくれた。

遊びに出てきたことはない。でも、私が考えつかないようなアイディアをよく提供してくれた。

 

 

そんな感じで、今でも状況に窮しているときや、何らかの問題に直面しているときは自動的に登場してくれる。

 

 

「私に、私自身といえるような人格は存在するのか?」

 

 

みなさんに討論してもらった。結論から言おうッ!!(亀)

 

 

「モデルになりきっていると思っているときの自分でも、それはやはり自分自身である。」ということらしい。

 

 

ふむ、、確かにそうかもしれない。表現の方法を獲得するために彼らを採用しているというのが一番の理由であるというのは納得できる。

 

それ以外に、価値観の変更という点ではつい最近実現できたように思えるが、やはり一番の理由はそれであろう。

 

 

ハードウェアは私自身であり、あくまでもソフトウェアが「彼ら」なのである。

 

 

そう「彼ら」から諭されると、俄然やる気と自己肯定感が増してきた。

 

 

・・・酔いがさめてきたなぁ

 

 

 

(変わる)

 

 

だからね、そのままのアタシで飲み会に行こうと思ったの。だって、別にどんな人格でもアタシはアタシなんだから別に変らなくていいよね~~~~???って。

 

 

でも現実は全然違ったの。というか、やっぱり普段のコミュニケーションで染みついちゃってるのだろうけど、従来の人格(社会性のあるENTJらしき人格ども)だとやっぱりコミュニケーションにもゴールを立てちゃうのね。

 

 

会話は普通にエンジョイしてるんだけど、でもやっぱり自分のなかで「本当に楽しい!!! アタシこのままずっと貴方たちと話したいわ~~~!!」!!みたいな感情がないのね。

 

 

やってやったぞ、上手くこなしてやったぞっっていう感覚が強くて。

 

 

(変わる)

 

 

それもそうなのですが、私は普通の格好、つまり、自分がおしゃれだな、身につけておきたいなと思うような身なりをしていたら「君はいわゆる陽キャだな? コールの話もしていたし」と多くの人からレッテルを張られてしまうわけです。

 

私自身、そうした誤解(?)はどのような人間にもあるわけですし、外見と内面が必ず符合している人などめったにおらぬはずであると考えています。

なので、そうした誤解は程度の差こそあれ、許容していく寛容な心が必要だと思うのです。

 

コミュニケーションに限らず、つまり社会性が要求されるような場面かどうかに関わらず、「マイペース」ということがなるほど、大切だなと思うようになりました。

 

時々空を見上げて、「あぁ、今日は晴れているな。いや、今日”も”晴れているなぁ。昨日の空はもう少し曇っていたかな? あっ、あの雲の形は上げ豆腐に似ているなぁ。揚げ豆腐、食べたいなぁ。」というような、他人からすれば道端の石ころほどどうでもよいことを許し、大事にすることが意外と大切なのだな、と。

 

 

ENTJの特質として、「あなたの本当にやりたいことは何?」と聞かれると答えに窮するようですが、彼らを見ているとそれが本当であるとよく分かります。

 

 

その実、彼らは冷酷な指導者として見なされがちですが、往々にして自分の欲望を満たしたいがためにそうなるのではなく、社会的に、あるいは世界をマクロに俯瞰したときに、自分はどのような役割をすべきなのかを第一に考えてしまう、誰にも優しい心の持ち主なのですね。

 

 

Nothing compares with comfortableness. 

 

私の最近考えたスローガンみたいなものです。少々恥ずかしいですが。

 

Comfortablenessとは,知性とユーモアに溢れた,ダイナミックな環境に自ら働きかけることのできる状態を指す。
これを実現させるには,意志と,意志を喚起させる環境の整備が不可欠であることを強く認識し,また実行しなければならない。

 

 

まさにその通りですね。

 

 

意志を大切にしましょう。「自分のやりたいことは何か」をぼんやりとでいいので見つめてみましょう。

 

 

(この人格になりきると決めたせいなのかはわかりませんが)今の私の「やりたいこと」は割と明確になってきました。

 

 

自分が何者なのか、人間とはどういう存在なのか、世界はどういう存在なのか。

でも、それに固執はしない。ただ、ぼんやりと外形を見つめるだけ。

 

目標も何もない。comfortablenessを満たせるような環境と自分を作る、あえて目標を作るならそんな感じでしょうか。

 

 

人生って面白いですね、生きててよかった!