最近、サークル活動からも身をひきつつあったり、大学の授業のコマ数が圧倒的に少なかったりするおかげで、人と交流する機会が極端に減っている。
人は独りになると独善的になりがちである。
世界は自分と、自分以外のものとして区分される。
浪人生のころに、予備校に通っておいてよかったと思うことは、周りに仲間がいたおかげ孤独にならずに健康的な精神で勉強できたということ。
宅浪生が往々にして精神を病んでしまうのは、世界から自分だけがハサミで切り取られたように感じてしまうからだろう。
しかし、宅浪のように日々「ひとりぼっち」で生活していても、何ら孤独感を感じることはないタイプの人間もいる。 私もどちらかと言えばそちらの人間だ。
思うに、そのような人間は生来、他人に関心がない。あるいは、他人はどのように考ええ、どのように行動しているのかあまり想像する習慣をもたない。
遺伝的な要因で、生まれ持って極度の自閉傾向を持つ者は例外としても、普通の人間であれば他人に関心をもつかそうでないかは後天的な要因が大きい。(面倒くさいのでこの説明は省く)
自閉傾向にあるものは、「有能」であることが多い。
当然である。例えば人生において与えられるタスクがみな等しく100であったとする。
周囲に積極的に関わり、他人の心理や行動に関心を持ち、それらについて正確に理解していれば、自分のタスクを細切れにして皆に分配する。
結果、自分がやるべきタスクは50まで減るかもしれない。
一方、自閉傾向にあるものは、他人に頼るということが極めて困難である。
極端に言えば、世界は「俺か、俺以外か」なので、タスクを他人に割り振るということが、タスクを”敵”に与える=借り(弱み)を作ってしまうと考える。
結果、タスクは100のままである。
人間は基本的にやればやるほど能力は向上する。
タスクが50の人間と100の人間では、自ずと後者に軍配が上がる。
あぁなるほど、それならばできるだけ他人に頼らず、自分の仕事は自分が全て行い、どんな失敗もすべて自分の責任にしてしまえば、それだけ成長できる。
幼き自分はこう考えた。ちょうどそのころ、東京グールが流行っており、その中で
「この世の不利益は全て当人の能力不足」
といういかにも厨二チックだが、グールに覚醒した金木くんが言うと何ともかっこよく聞こえるセリフがあった。
私は金木君に当時の自分の思いを重ねた。
しかし、人間もグールも、全ての失敗を引き受けられるほど強い人間ではない。
自分に関する失敗ならまだしも、「雨が降った」ことを予測できずに笠をもっていかず結果濡れてしまったことを悔やみ、必要以上に自分を責めていた。
馬鹿か????
雨が降ったら涼しくなるし、農作物はきちんと育つ。晴れの時には決して味わえない魅力だって沢山ある。傘をさしていれば、振ってきた雨粒の音が耳を癒してくれる。(ほとんどの人はなぜか嫌うが)水に濡れたアスファルトの独特な匂いは鼻を癒してくれる。雨に濡れたことで透けて見えるOLのシャツは目を癒してくれる。。。いや、癒すのは目じゃないかな?
仮に、だ。そんな気象学的植物学的視点から雨の利点を理解していなくても、雨がもたらす独特の風情を感じることができなくとも、雨を予測できなかったことを必要以上に攻めてなんになるというのだ。
「あ~~雨降ってきちゃった。次からはきちんと天気予報見よ。」
1秒にも満たない反省で済む。
モチハ・モチヤ
合言葉を教えよう。モチハ・モチヤ。
これは勿論、「餅は餅屋」だ。素人は専門家にはかなわない。だからタスクは専門家に任せるべきだということわざである。
「人間は社会的動物である。」
恐らく人類の科学の発展において最も偉大な人物、アリストテレス様も仰っている。
人は独りでは生きていけない。
独りが好きだというやつがいるが、だからといってずっと独りでいつづけて平気なやつなんかいないのだ。
君は孤独ではない。むしろ、この世に生を享けたその瞬間から否応なしに、世界とのかかわりをもつことを「強制されている」
独りが好きな人間からすれば、これほど腹立たしいことはない。そうではないかい??
ならばよいだろう。戦争だ。
思う存分に世界と関わって、世界を利用してやろうではないか。
モチハ・モチヤ。