ふとした瞬間に顔を出す「虚無」から逃げられない

 

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春が巡ってきた。うららかな陽光と、頬を優しく撫でる春風。

 

 

 

 

快晴のときは、まるで世界を一挙に把握しがちな粗雑さから生まれた幼児がえがく絵のように、空の青と山の緑は自身の色を過度といえるほど主張している。

 

 

 

 

「春に3日の晴れなし」という諺があるが、まさに言いえて妙である。

天気は情緒不安定。朝に太陽が照り輝いても、夜には雨嵐なんてことはよくある。

 

 

 

 

 

大学生になり、自然豊かな場所に囲まれてすごすことでより一層、自然に畏怖を抱くようになった。

 

 

 

 

私たちは自然のなすがままなのである。 天変地異には逆らえない。所詮、人間も他の動物と同じ生き物、少し揺らせばすぐにくたばってしまう弱い生き物である

 

 

 

 

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そこに、一人の傲慢な男がいた。

 

 

その傲慢は、彼自身の能力によってではなく、むしろ彼とは無関係なところから生まれてしまった。

 

 

しかし、いずれその不遜は崩壊することは目に見えていた。

 

 

男は恐れていた。未だ痛烈には感じることのない「現実感」を。感じることはなくとも、しかし、毒が付着した針がゆっくりと自らの心臓にぷつりと刺さり、その毒が全身に回っていることは感じられた。

 

 

 

 

恐怖は、快楽の対岸に座している。快楽を快楽たらしめているのは生への執着である。

 

 

 

快楽には理由がない。なぜそういうことをして落ち着くのかと問われても、多くのものは何となくと答える。

 

 

 

そうだ、恐怖をなくすには快楽を得ればいいのだ。

 

 

高慢で臆病なその男は、即物的な快楽に身をゆだねた。

 

 

寝て、喰って、セックスする。三大欲求さえ満たせば、私の快楽がいずれ恐怖を打ち消すだろう。

 

 

男は欲に忠実になり、快楽の奴隷になったのだ。

 

 

 

しかし、快楽は彼を裏切った。

 

 

依然として恐怖は、男の心の部屋の中心に我が物が居座り続け、むしろその部屋は恐怖という黒いしみで埋め尽くされるようになったのだ。

 

 

男はとうとう、その恐怖に耐えきれず自死してしまう。

 

 

 

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人間とは、何なのだろうか。世界は何から構成されているのか。

 

 

人間を他の「下等な」生物と同じ範疇に位置付けるということは、人間の意識内ではタブーとなっている。

 

 

人間にのみ許されている(と思われる)意識というのは、代償として苦しみを甘受せねばならない。

 

 

苦しみ?高尚な苦悩は美しいが、その美しさはまさに高尚さそのものに由来すると誰かが言っていた。

 

 

それでは高尚でない苦悩は何なのだろう。そもそも美しさが何になるというのだ。

 

 

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脳に電極をぶっ刺して刺激を与えると幸せになれるそうだ。

 

認知能力もあがり良いことしかない。

 

誰か私の頭に鉄の棒をさしてほしい。自転車を勢いよく漕いでいるときにハンドルの操作を誤り、鉄柵に顔を貫かれ、そのまま雷が直撃して、幸福感に包まれながら死にたい

 

 

とはいうものの、死にたいなんて感情は露程抱いたことはないが。

 

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高校のころから慕い続けていた女がいた。

 

 

この春休みを利用して久々に彼女と対面し、31アイスクリームの何が一番美味しいかというくだらない議論から、将来私たちはどうなってゆくのだろう、結婚はできるのだろうか、そのまま老いて死んでいくという辛辣な事実を受け止められるか、というような哲学的な議論まで、白熱して語り合った。

 

 

彼女は美しすぎる。雌としての魅力を兼ね備えた彼女は、あまりにも多くの雄を引き寄せる。しかし、そんなことはどうでもよい。

 

 

 

私の苦悩はもっぱら彼女の美しさから生じていた。

 

 

 

あの頃の私は、彼女の美しさとは本質であり、本質である美しさを中心に私の生活が回っている、そんな風に考えて生きていた。

 

 

 

幸せだった。

狂信者が狂信的であるのは、その狂信者が、神という本質そのものに自分がなるということではなく、神の周りに常に存在し続ける、本質の傍観者であることを確信しているからである。

 

 

 

私は狂信者であった。美という本質、本質という美。

本質の輪郭をなぞることで世界を形作り、したがって世界は本質で構成されていた。

 

 

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しかし、それも彼女と再対面した春までのことである。

 

 

狂信者はあくまでも、神の発する言葉にしたがい、神の作る世界に納得し、神の信念のもとに生きなければならない。

 

 

狂信者は疑わない。疑うやいなや、忽ち神の世界は崩落し、其の世界の住人である狂信者もまた壊れてしまう。

 

 

私は神を疑ってしまった。いや、正確に言えば神を、美を、本質を、自らの裡に取り込んでしまったのだ。

 

 

神は老いないが、彼女は老いていた。アスファルトで美しく舗装されたで道路は、どんなに美しく整えられていても、時が亀裂を生じさせ、亀裂は醜さを倦む。

 

 

老いだけではない。私の個人的な信条、価値観、生活スタイル全てが、彼女のそれらと見事に一致していることに気が付いてしまった。

 

 

狂信者は、神のなす言動に同意し忠実になるが、神になるわけではない。

 

私がこれまで築き上げてきた「本質」の世界は、崩壊の音を遠くから徐々に響かせていた。

 

 

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「ロマンだねぇ、けらけらけら」

 

この言葉は、私の愛するゲームに登場する、女のサイボーグの言葉である。

 

そのゲームとはパワプロクンポケット9であり、サイボーグは広川 武美という名である。野球ゲーム内のただの育成サクセスと思ったら大間違いである。

 

経済、宗教、哲学、社会、医学、その他の幅広い分野をしる教養豊かなスタッフによって作られた最高のゲームといっても過言ではないだろう。

 

 

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彼女は自身を作ったサイボーグ研究所から脱走してきたが、体内にはタイマー付き自爆装置が備えられており、自分の命が残りわずかということも認識している。

 

 

 

それなのに、彼女は平然として日常を過ごし、自爆するそのときまで誰にもそのことを話すことなく山奥で静かに消滅していく。

 

 

 

死が、虚無が、目の前に迫っているというのに彼女は世界を楽観的に過ごす。

 

私にはとうていできない。彼女やパワポケについての記事はまたどこかで話そう。

 

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ここには、ありがたく拝み毎日の糧にできるような結論はない。

 

 

むしろ、読者の糧だったものを破壊してしまったかもしれない。

 

 

それでも、私は希求し続ける。

 

 

虚無を超えた何か、ロマンを。