絶望か、それとも希望か

今日から合宿免許で1人、見知らぬ土地にて夜を過ごす事になっている。

催眠不足ということもあり、今朝から私はとても憂鬱だった。今日ほど重くは考えていなかった、あるいは希望として考えていた、この世界の仕組みについて、あまりにも悲観的に考えすぎていた。

「私は、この地で誰とも交友関係を築かない」

頭の中で何度も何度も繰り返し、そして、もはや人間には興味がない、という信念が醸成されているかのような思えた。

「私は人が怖い」

信念を唱えているうちに、いつのまにか人間に対する恐怖の感情が渦巻いていた。

合宿免許というと、数週間で見知らぬ人と仲良くなったら、恋仲を築くというイベントが起こりがちだという。私はそれを聞いて、知らぬ間に人間と関わり合わなければならないという仕事を、重荷を感じていた。

 

第二のあらやしきは、社交的で誰とでも仲良くなろうと思えばなれる、そんな人間だった。

しかし、自分が否定されないために作られた一つの人格だった、ということに気づき、そして、私が救うべきモノなど存在しないということを知ってからは、第二のあらやしきが第二のあらやしきのような行動を取る必要性がなくなったのだ。

 

「もうこれからは、自分の好きなように生きていいんだ!」

第一のあらやしきが、私に微笑みかけ、彼は私と同化した。これは間違いなく希望だった。世間で言うところの、ポジティブなニヒリズムだった。

自分が今ハマっている趣味に没頭できて、楽しかった。他人がどうだろうと自分には関係ないのだということが、論理的に導き出されるので、私にとっては安寧だった。

 

しかし、今、私は希望には満ち溢れていない。むしろ、「他人は関係ないんだ」という信念はドス黒く、攻撃的で、憂鬱な雰囲気に満ちている。なぜだ???

 

今朝、考えていたこととして、

「これほどまでに他者が論理的に必要ない、無理して関わることもないという真理があるのに、それでいても他者と関わろうとする心ができたり、1人でいることが寂しいと感じるのであれば、それはむしろ、私が主観的に幸せになれる素質を持っていることで、昔憧れていた"人間性"を持っているということで喜ぶべきなのでは?」ということがあった。

 

たしかに、今、私は間違いなく"人"を欲している。私を肯定してくれる人を欲している。

これは間違いなく、"人間らしさ"だ。

この世に因果がないと分かっていても、私が人間らしい人である限り、この感覚や思いは絶対に消えない。そして、その想いに素直になることで私は本当の意味で"幸せ"になれる。

 

「お前は、お前を肯定してくれる"人"がいるのか?」

 

かつてはいたように思う。高校の頃の元カノしかり、昔の母親や、大学でできた友達などだ。

 

でも今は……いる?だろうか。

いや、今いないことが悲しいのではない。

「これから」できそうにないということが悲しいのだ。何故なら、肯定されるということは少なからず自分の過去を知っている必要があると思うから。

とはいいつつ、そんなことはないのだろうともおもっている。

 

結局は、気の持ちようなのだ。

ポジティブに考えることができれば、何事もうまくいくのに。

 

 

(また、己を押し殺して、第二のあらやしきに戻るか?)

 

はっはっはっは

 

あの頃はとても楽だった…ある意味ねー。

doさえ考えればいいから。ん?いや、それも一つの手なのかな。

 

 

善悪も本質的に意味がないということを知った。

ならば、私は悪に染まってでも幸福になるか?

 

私は何になりたい?分からない。

待って、めっちゃ病んでる笑

 

よく考えたらさぁ、俺が病んでるのなんて人生で初めてなんだよな。ははは。

 

多分、いま単純に暇やねんな(笑)

暇やし、これといった目標もないしで。

そういう人間なんかもしらん、目標作るか。

 

その目標っていうのも、他人と競ってたときに強く認識されてたなぁ。もう多分そういう人間なんやろうな俺って笑

 

なんか分かったかも。

 

自分が病んでる時って、

やりたいことがあるのにそれを抑圧してるとき!

 

目標を持って、がんばりたい

人と関わりたい

そんな俺の欲望が、今でも「虚無」から抑圧されてる。結論。

 

 

そして、その「虚無」は、俺がやりたいことをできなかったときの言い訳として出現し、たいていの悪役はこれが大好き!

 

そんなんわかってる。分かっていながら、自分の本能に従う。これって宗教ぽいね笑

 

あらやしき教、ここに立てます