ENTJの条件:有能であること

去年の1月ごろ?からか、MBTIでENTJではなくESTJとして診断されるようになった。

私はそれを、ある種グループに適応できるようになれたと解釈することで、すすんでESTJを受け入れた。

 

しかし、ENTJでない自分に寂しさを感じることもあった。最強のイメージが強いENTJでなくなったことに、「そんなの嫌だ」という感覚が拭えなくなったのだ。

 

ENTJといえば、そう、創作ではラスボスとして描かれることが多い。特徴としては、明確な目標を持ち、他者を巻き込みながら、冷静かつ客観的に状況を判断して、綿密に立てた計画を実行していく。

そこでは、倫理観や社会的なルールは目的達成のために邪魔であれば排除される。いわゆる、目的を達成するためには、手段を問わないタイプである。

 

私のよく知る創作のキャラクターの1人、また、尊敬する人間の1人である神条紫杏もまた、ENTJだと某掲示板では診断されている。その他、ジョジョの奇妙な冒険では、吉良吉影プッチ神父を除いた全てのラスボスはENTJであると診断されている。

 

話は変わるが、私はよく主人公側ではなく、敵側、それも中ボスではなくラスボスに感情移入し、また、そうなりたいと自分でも思うようになることが多い。それはきっと色んな要因がある。

①生まれた環境と育て方

 私は愛情深い宗教家の母親を持っている。子どもの頃から、これでもかというほど甘やかされてきた。そして、母親は愚直という言葉が似合うくらい、他人を疑わない人間だった。

 最初はほんの出来心だったのだろう、私は学校に行きたくなくて、お腹が痛いという仮病を母親に申告した。母親は愚直で素直すぎて、それを間に受けて私を休ませた。

 私は学校をたびたび仮病で休むようになった。病院に連れていかれ、ありもしない熱を測り、痛くもないお腹を痛そうに医者に振る舞って見せた。熱測定器で高い熱を出すために、摩擦熱を起こしたこともあった。母親が目の前にいる時は、どうやって熱を高くするか苦心したものである。

 母親以外の人間であれば、私のそうした仮病をすぐに見なき、なんとかしていただろう。しかし,私の母親は違った。ASD気質があるからか、とにかく相手の表情が読み取れない。だから、子どもの私が気分が悪いと言えばそれを信じるしかないのだ。

 子を思う心はあるが、認知的な側面で正常でない母親は、悲しいかな、今の私のような、嘘つきを作ってしまった。これが、ENTJの私を作った一つの要因である。

 

 もう一つの要因は、豊富な愛情を受けたのにも関わらず、得体の知れない神様という存在より優先順位が低いと認識して、安全基地が作れなかったことがある。いい例として、母親は私に対して神様にお金のお布施をしろと言いづけたこと。あるいは、私に対して「お金がかかる子だね」と(悪気なく)いう割には、神様へのお布施として月に何万円も使っていることが挙げられる。

 私は意味が分からなかった。母親にとっては、神様にお布施をするという行為がいかに正しく、効果があるかが感じられるのだろうが、無論、わたしには分からない。だから、私は母親のお布施をこっそり取るようになった。これは、ENTJの行動力や非倫理性を助長するきっかけの一つになっただろう。

 

 ②「力」があったから

これは今さっき思いついた要因だ。私たちはしばしば、性格が何事も先にあると考えている、それは生得的なものであり、それ以外の事象とは独立していると。

しかし、ENTJに限っていうと、それは間違っていると思う。つまり、ENTJになるためには、生得的な要因以上に、後天的な要因があるということだ。それは何かというと、「力」があるかということだ。

「力」とは、コミュニティにおいて卓越した能力である。小学生の頃の遊びの場であれば、卓越した運動能力があること、強いカードを持っていたりゲームがうまいことや詳しいことなどが挙げられる。中学生では、卓越した運動能力に加えて、頭の良さ、面白さなど、高校生では顔の良さ、コミュ力の高さ、人気のある部活に所属すること、身長、学力など。大学では、、、なんだろうか、学力というより、顔や身長、あるいは財力、それからコミュニティにおける地位などか?

 

つまり、要約するとコミュニティにおいて尊敬される、あるいは重宝される能力を持っていることが重要なのだ。

 

私は今まで、ENTJになろうとした時は、精神性の変換から試みてきた。つまり、ENTJのキャラはどういうことを考えるか,あるいは行動するかを考えるということだ。そうすることで、自分もENTJになれるのだと思っていた。

 

だが,今のところそれだけでは変わらないらしい。どうやら、確固たる能力があることがENTJの条件、発動条件?になりそう。