9月某日、その男は関西の田舎の駅で、とある言葉が頭の中を反芻していた。
「しにたい。」と。なぜ希死念慮が生じていたのか、その時はよくわからなかったが、ぼんやりとした意識の中で、はっきりと「しにたい」という言葉だけは繰り返されていた。
男は、感情的な意味からそうした希死念慮を抱いているわけではなかった。
男は、これまでの人生や、考え方の変遷を経て、彼の中での世界観を内に醸成させていき、その結果、「この世界には生きる意味がやはりない」という結論に至ったのだ。
男はその昔、このようなニヒリズムを抱いていたことはあったが、今回は同じニヒリズムでもされに厄介なものに苛まれていた。
というのも、彼は社会的な倫理感、あるいは明るい?感性がないため、頭では善人だと感じている人たちと共に歩むことはできないのではないかと絶望していたからだ。
つまり、社会を善くするうえで、彼自身の倫理観、考え方、感性は障害になるのではないか、あるいは、彼自身が楽しく生きることはできないのではないかと絶望していたからだ。
彼が昔ニヒリズムから脱却できたのは、ニヒリズムでありながらも、自分が好きなことをして生きていけばいいと考えられたからだ。少なくとも、その時点では、彼は彼自身の未来を楽観的に見ていた。しかし、今回は、その点で異なる。彼は彼自身の彼女に対して、また、友人に対して、仕事に対して、そして将来の自分に対して、悲観的になっていたのだ。
彼は、自分自身がtakerであることに悩んでいた。
成功する人は、giverであることが多いと聞いていたから。
そして、彼は彼と同じような悩みを持っている人が友人にいないか探した。
1人は、同じ大学の同じ同期の女性。もう一人は、同じ高校の同期。
2人とも、彼の感性や境遇に共感はしてくれなかった。残念ながら。
だがしかし、人に打ち明けることで少しは楽になったということに彼は気づいた。
彼の一番の親友であるNくんに打ち明けると、特によく話を聞いてくれて、彼はとても気分がすっきりしたそうだ。ただただ、話をきいてもらうということも、自身を落ち着けるための有効な策なのだ、ということを彼はその時に学んだ。
話は、田舎の駅の時に戻る。彼はしにたいと頭の中で連呼していて、そのまま電車に乗り込み、少しだけ寝た。そして、起きた瞬間、彼は目覚めた。
「新しい時代、新しい世界を作るのだ。」ということが彼の中にひらめいた。
彼自身もそうだし、彼以外の存在も幸せになるような世界を創ろう。
そういう閃きがあってから、世界に対してポジティブになれたのだ。
なぜ突然、そうした閃きがあったかは分からない。ふと、そうした命令のようなものが私に下った。強いて言えば、そのとききいていた梅田サイファーの歌詞にインスパイアされたのかもしれない。
「誰かが生きた時代とか
一緒に見たい未来 みにいこう」
かつ、ちょうど読んでいた本には、ギバーのマインドとして、
自分も他人も幸せになるような目的を設定することが挙げられていたことにも影響されていると思う。
私が作りたい未来がどういうものかは具体的には言えない。でも、私も笑っていて、みんなも笑っているような未来が作りたい、そういう未来は絶対に作りたいという思いは確かにある。
途中から三人称じゃなくて一人称になってしまっているけど気にしない。
昨日、空庭温泉にいったけど、より温度の高い岩盤浴にいったあとは、それより低い温度の岩盤浴が楽に感じた。
また、スーパーサイヤ人だって、死線を乗り越えたら強くなる。
こんな感じで、俺は今日きっと、精神的な死線を乗り越えた。
だから、きっと強くなっていると思う。
もしかりにまた再び、「しにたい」
と思うようになっても、「しにたいくらいつらい」といいかえるようにしたい。
これはとある記事の受け売りだけど、確かにそう思った。