面白い,つまらないとはどういうことか

前回の記事で書いた通り,私はつまらない人認定されていたことが明らかになった。

正直,これはカルチャーショックの一つだと考えている。つまり,大阪という笑いに厳しい文化がある土地で,私がその笑いの基準に達するくらい面白くないということだ。相対的に面白くないという話,あるいは,色々な面白さがある中で,大阪で重視される側面の笑いでレベルが低いという話だ。

 

今まで,面白くないと面と向かって言われたことは正直こちらに来るまで一度もなかった。前に言われた,というか言わせたのは,元カノからだった。

クリスマスを一緒に過ごしたとき,「あんまり楽しくなかった」そうだ。もちろん,それはトークだけでなくて,プレゼントの内容とか,何をしたかということも関係があるだろう。しかし,「かみ合っていない」という彼女の言葉には,少なからず「あらやしきは面白くない」という意味も込められていたと思う。自戒のつもりで,別れるときに彼女に面白くないといってもらったが,それはやっぱり言わせた言葉だからあんまり響いてなかった。

 

福岡にいたときは,面白くないなんて言われなかったし,いやむしろ,ギャグ線が高いとまで言われていた。あの時から私は,面白さという点ではあまり変わっていないと思う。だからこそ,今回面白くないと言われてしまったのは,大阪でのノリに合っていないからだという結論を出した。

 

それにしても,昨日の夜からずっとあの言葉がリフレインする。それと同時に,私が編入をした動機が当時の彼女だったということを話した時,彼らは優しく寄り添ってくれたことを思い出すと,彼らは私を嫌ってはいないのだろう。ただ良いやつという立ち位置にいるのかもしれない。

 

そのままでも,私がその地位を甘んじて受け入れられるのならよいが,どうやらそういうわけにもいかない性分のようだ。

 

これから数年間は大阪で過ごすわけだし,社会人になっても面白くない奴認定されると仕事にも支障をきたすかもしれない。ということで,きちんと笑いに向き合ってみたい。

 

ロールモデル

 私も笑いについて全く無頓着であったというわけではない。最近は,タイガー&ドラゴンという落語をもとにしたドラマを積極的に見ようとしたり,ざっくりのYouTubeチャンネルや人志松本のすべらない話を見て,どんな話し方をしたら場を回せるかとか,笑いが取れるかをよく考えるようになっていた。

 

 サークルの練習後,メンバーと話すときにもそうやって学んだことを使おうともした。例えば,フットボールアワーの後藤さんのようにしゃべってみること。フット後藤さんはまず,話を聞くときにどういうポーズを取るか,あるいはどういう表情になるかが決まっている。右手で頭の後ろを触りながら,あるいは人差し指で口のごみをとるようなそぶりをしながら,あるいは腕組をして眉を潜めながら聞く。相槌は,「はあー」とか「へえー」とかを多用する。ツッコミをするときも,粗品みたいにパーッと早く突っ込むんじゃなくて,比較的緩いテンポで例えツッコミする。最近で覚えているのは,オール練の帰り道,キャッチの提示する価格は信用できないよなあという話になったとき,「キャッチの価格と政治家のマニフェストは信用できんわ」という相槌をしてみたり。(ちゃんと笑ってくれた)

 

 たとえツッコミというのは非常に有効な手段の一つだと思う。大阪の人はよく例えツッコミをする気がする。

 

 最近のロールモデルはもっぱら後藤さんだけやったけども,それじゃあ上手く適応できないと改めて感じた。続きは夕食の後に書こう。

 

 

笑いの3要素

1.攻撃性

2.共感性

3.ずれ

 

 1については「いじり」というワードが鍵となる。笑いは本質的に攻撃性を多分に含んでいる。誰かの容姿であったり、内面であったりする。だからこそ、「いじり」という言葉が流行る。

 私の周りの人を、面白い・面白くないで分類すると、面白い人は8割くらい、この攻撃性を兼ね備えている。残りの2割は、天然とピエロだ(2割)

 この点で大切なのは、攻撃性が受け入れられる関係性を築く、あるいはそういった雰囲気を作ること。例えば、全くお互いのことを知らない者同士で、第三者なあるいはお互いが一方を「いじる」のはとてもリスキーだ。そんなことをしてしまえば、こいつ非常識だなと思われてしまう。必ずしも親密な関係性を築かなければならないわけではなく、「いじられる」側が「いじられる」ことをオープンにしている場合でもok