言葉、ことばが。大切だよね

 
 
「もうあなたとは絶縁します」
 
 
高校生の頃、本当に好きだった好きな人と付き合い始めてはや2週間後、私は「絶縁」されかけた。通話で喧嘩をしてしまい、思わず彼女の口からそれは放たれた。そして通話は強制終了された。
 
 
.....私はその日、眠れなかった。どくっどくっと脈を打つ心臓が、私を殺しにかかってきていたから。そのまま寝てしまうと本当に死んでしまう気がした。

人間関係における絶縁(ぜつえん)とは、交友関係、師弟関係などの付き合いを絶つことをいう。絶交(ぜっこう)ともいう。親子関係であれば勘当ともいう。(Wikipedia

 

 辞書的な意味ではもちろん、付き合いを絶つということ。絶交や勘当と同じくらい重い言葉である。

 

当時の私は、絶縁の意味を勿論この意味で捉えていた。ので、彼女の口から放たれたその言葉に動揺せざるをえなかった。

 

 

「それって、もう会わないってこと?」

 

 

尋ね返したLINE。彼女からの連絡はない。通話をしてみると意外にも出た。また尋ね返す。

 

 

「昨日の絶縁って、僕たちもう二度と顔を合わせないって意味?」

 

 

「いや、そこまでのことは言ってないよ。別れようって意味。」

 

 

ほっと胸を撫で下ろした。別れようという申し出より、「一生会うことができないかもしれない」という不安が私を苦しめていたから。(余談だが、その後彼女とは仲直りをした。)

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 さて、ことばとは、我々人間がコミュニケーションをする上でほぼ必要不可欠なものです。自分が考えているアイデアを伝えるために人間は言葉を使用します。便利ですね、しかし、言葉は完全ではありません。
 
 
第一に、みんなが同じ言葉を使っていても必ずしもその言葉に対する認識が一致するとは限らないという点で不完全です。
 
 
事物を示す言葉について認識に齟齬が生じることは稀だと思われますが、問題は観念を指し示す言葉の場合です。自分はAという言葉を◯◯だと定義していても、他の人にとってAとは△△という意味である可能性があるわけですね。
 
 
 
笑っていることを表す「www」に対して抱く考えは、「笑い」という部分では普遍的に共通の認識を持っているのは明らかですが、人によってはこれに侮辱の意味が含まれていたりするわけです。
 
 
そうした認識の相違から、対立が起こることはしばしばあります。さて、どうすればこの問題を解決することができるのでしょうか?手っ取り早い方法は、認識の統一ですよね。
 
つまり、国語辞典に載っている定義を絶対的に正しいとして、それ以外の用法を使う者が悪いとすることです。しかし、それはあまり現実的ではありませんよね。
 
 
次に考えられる解決方法として、
言葉のこうした性質をあらかじめ理解しておくことです。言葉は主観的なものだと頭の片隅に残しておけば、対立が生じたときにその原因が言葉の認識の相違かもしれないと考えることができます。
そして、相手にきちんとした説明を求めて、相手が自分に伝わるようにしっかりと説明してくれれば少なからず事態は好転するでしょう。
 
しかし、これも少々欠点というか、まあ完全ではありません。何故ならば、世の中には自分が使用している言葉をきちんと説明できない人間が多く存在します。
 
そうした相手に説明を求めても逆ギレされることが経験上多々ありました。(自分の場合は、学校の先生でした。上司や教師など、身分的に上の立場だったりすると説明責任を果たそうとすることは屈辱で憤りの種なのかもしれませんね)
 
今は昔、国会では森友学園の問題で、野党が公文書を書きかえたのかそうでないのかを財務省に説明させようとしていましたが、財務省ははっきりとした説明はしていませんね。
 
 
 
 
 
 同じ日本人相手ですらこんな衝突が起こるのに、ましてや外国人を相手にするとトラブルが起きる可能性ははるかに高くなるでしょう。
 
これから大学生になる人は、留学生と会話する機会が増えると思いますし、東京オリンピックが開催されるので外国人と接しないわけにはいかなくなる。
されば、「郷に入りては郷に従え」というように外国人のことを想いやらずに自国の文化や価値観が日本では絶対的に正しいものとして強制できようか? 
 
 
いつだって、自分が正義だと思う人は愚かです。思想が正義であるかは、議論を通して大衆に決定されなければなりません。
 
ここで現代文を勉強して得た力が役に立ちます
 
現代文を勉強することで2種の能力が発達します。1つ目は、解釈能力。2つ目は、観念の表現、説明力。
現代文の試験では、問題文を読んでそれを最も妥当だと思われるように解釈をし、適切に、明確にその解釈を説明することが問われます。
 
コミュニケーションの基礎力が養われるといっても過言ではないでしょう。どこかで聞いた話ですが、社会人に子供の頃に勉強した科目のうち1番役立った科目を尋ねたところ、現代文の割合が最も高かったそうです。社会にでても、現代文は役に立つのでしょう。
 
対人関係における現代文の効用は、以上のようなものだと私は考えております。そして、認識の相違を発端とする対立はなくなると信じています。言語習得能力はあまり才能に左右されないと研究結果が出ているのを見た覚えがあるからです。
 
現代文はとても役に立つ教科なのです。