最近のお話 目標に向かって淡々と・誠実に。


これ、私あらやしきの今年初めて引いたおみくじです。

「末吉」

年初から微妙な気持ちにさせてくれるじゃねーの。

どうも、神様は私は信じないんだけど、それでもおみくじの内容は何となく信じちゃう多神教の日本人の権化こと、あらやしきです。

 

思えば、編入受験の年に引いたおみくじにもかなりすがっていました。
努力・友情・勝利みたいなこと書かれてて、そのうちの2要素くらいが意味わかんなかったから、その言葉が頭の中で強迫的だったんだよな。まあ、結果的に良い影響をもたらしてくれたので、そういう理由でおみくじが好きなんだと思う。まんまと。

今年始まってまだ2か月くらいだけど、ちょっと振り返ってみようじゃねーの。

 

和歌

もえ出ずる 若葉の色ぞ 美しき 花さき実る 末も見えつゝ

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次第(しだい)次第に運がひらけて盛んになります。
あまりに一足とびにとんで事をしようとするとあやまります。
時をみて 心なかくのぞみを達しなさい。
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願望:にわかに事をなさんとすれば災いあり 
待人:おそけれど来る
失物:出る 低い所
旅行:よろし さわりなし
商売:次第に上がりて利
学問:早めに目標をたて全力を尽くせ
相場:上がる気配あり
争事:勝つと損あり
恋愛:誠意を示すことが大切
転居:十分ならず
出産:さらりなし 安産
病気:弱気にならねば治る
縁談:叶うともおそし さわげば破れる

 

所感

あまりに一足とびにとんで事をしようとするとあやまります

この言葉はすぐにピンときましたね。まだ2024年始まってまだ2か月しかたっていませんが、恋愛なり、仕事なり、ダンスなり、何事もですね、一足とびにやろうとして、痛い目を見たり、自分の選択が誤っていたりしたことが判明しています。

 

今迄自分は、理想像を描き、そしてその表面上だけでもコピーすることにたけていて、それで何とかやりくりしていたように思えます。もちろんそれも、十分立派な才能であり、かつ、偽りの能力ではないと思っています。ただし、何かことを為すということにおいては、そうした張りぼてのやりくりでは乗り越えられないということを、このおみくじに教えられずとも、最近ようやくわかってきました。

 

最近、上司から、私と私の先輩には明確な壁があると伝えられました。それは、何かとは教えられませんでしたが、今になって思うのは上に書いたようなことだと思うのです。私はガワだけ模倣するのが得意だったり、あるいは、全体像をつかむのは得意だったりするので、それが視座の高い思考を持っているという自負に繋がっているようです。ただし、上記の通り、「本物」とはより細部にこそ拘りがあり、それが全体の重厚感や信頼感、そして質の高さへとつながっているのです。

 

仕事であれば、そうした細部へのこだわりは、細部へのこだわりというある種の性格的な気質で片付けられそうですが、その背後には、成果物に対する責任、社会人としての規範、そして上位者としての責務という様々な要素がそうした気質を作り上げているのだと思っています。

私は、そうしたマインド的な抽象的な話はとんと嫌いですが、一度そういうことを理解してしまうと、あるいは、抽象的な概念を獲得すると、人間というのはそうした概念を通して世界を見るようになってしまいます。それは理性による自由とも言えますが、一方で、現実世界のブラインドとも言えます。

話が若干それましたが、要は、私はゴールに一足飛びに行こうとするのは今の私にとっては悪手であり、ゴールを描くことに加えて、きちんとロードマップを描き、そしてそれをたんたんと実行することが肝要なのです。

 

恋愛について

ここ3か月で、私の恋愛観ひいては女性観が大きく変わりました。
もっと言えば、私の女性に対する捉え方を客観的に見れるようになった、ともいえるでしょうか。

前の記事でも書いている通り、私は今まで、おそらく世間的に見れば不誠実な交際ばかり続けていました。相手の気持ちを考えることなく、自分の欲望のままに相手をコントロールしたり、あるいは、無下に扱ったり。女性との交際という面においては、もっぱら相手を人間的にみるということは基本的にありえませんでした。そこで、前の彼女と出会い、初めて人間を愛するということ、そして、それは実は愛されるということを知ったがゆえに獲得した感覚なのですが、そうしたように人と人との結びつきという点において、自分は大きく成長しました。

一方で、絶対的に自分が有利な立場にいられないと確信できなければ、私はひどく臆病になり、そして自由な恋愛をすることができませんでした。いや、今もその節は恐らくあると思います。年下が似合うよと言ってくれた子の意味が分かりました。

ただ、それは真に相手を愛しているということにはならないのだと思う。
相手がどのような属性であれ、その人自身と向き合い、愛するということは属性の如何にかかわるべきではないと、強く信じている。

それはそうと、
私は女性に対して今迄何を求めていたかがはっきりと分かった。
それは圧倒的な母性である。慈しむ心と、その能力である。ユングはそれを愛と呼んでいる。そして、その条件として、今のわたしは、私と同じような人間しかそのような感覚やのうりょくは発揮されない。例えば、めちゃくちゃ裕福な家庭で愛情をたくさん受けて育った子に対しては、ありえないほどの憎しみをぶつけることができる。どれだけお金を持っていようと、プライスレスな愛情体験を受けた人間は、それだけで自身の価値観をひどいときには押し付けてくる。その幸福で無知な押し付けは私をして殺人的な動機まで借り立たせる。

そして、もう一つ求めているのは女体である。ここでいう女体とは、あくまでもサービス的な観点の女体であるだろう。最近、製造業は「モノからコトへ」というが、私の女に対する、そして女体に対する考え方も同じである。要は、肉欲を満たすだけのサービスを提供できる人間であればよいのだ。

また、哀れなるものたちを見てから、
野蛮と理性と社会的規範が、それぞれ相反するものでもなく、そして明確な境界線があるわけでもないということを知り、私もまた、これらの基準によって人を眺めることができるようになったと思う。

私は上記の基準から、ある程度、自分の求めている相手を明確にして、そして、しかるべき相手が見つかったら、その人に対して誠実にアプローチし続けようと思う。

 

「誠実」とは、、?
To Be Continued,,,,